もう嫌だ。
怖くて仕方が無かった。
彼が視界に入るだけで、吐き気に襲われる。
もう嫌だ...。
今日も御堂さんに呼び出しをされて、
約束のホテルの前に来ていた。
「...はぁ」
出てくるものは溜息ばかりで、
ここに到着するまで一体何度溜息をついたのだろう。
オレは静かにホテルを見上げた。
「...はぁ」
もうこんな事はしたくなかった。
どちらの利点にもなっていない。
何故彼は...。
「...」
扉を開けると、御堂が気付いてパソコンをパタンと閉じた。
「...」
ズボンを脱がされるとオレは手首を拘束されて、
ベッドに転がされた。
死にたい、死にたい、シニタイ。
恥ずかしくて、死にたかった。
御堂を恨む気持ちはあった。
それでもそれは単純な恨みで...、
勇気のないオレにはそれ以上の感情にはならずに、
自分への憎しみに全てが変わっていった。
何とか帰宅し風呂に入ると、すぐにベッドに倒れこんで眠りに落ちたものの、明け方近くに目が覚めた。
下半身への酷い痛みがゆっくりとオレを現実に引き戻していく。
こんな生活が嫌だった。
でも、これを止めたらノルマは上がる。
逃げ出したかった。
どこへでも良かった。
全てを忘れて、自由になれるところに。
オレは、無造作に机の上に置かれたカッターナイフを見つけた。
何も考えなかった。
それを持って、音を立てずにバスルームへと移動した。
湯船に溜められた残り湯にはまだわずかに熱があり、丁度人肌程度だ。
オレは、自分の手首に刃を深く埋めた。
白い骨が見えるまで。
全てを忘れ、自由を手に入れるために。
憎しみを込めて――。
そして、湯船に手首を浸けた。
「さよなら」
**
月曜日、連絡もなしに会社に来なかった克哉を心配して、
本多が彼の家を訪れた。
MGNとのミーティングもあった為に、御堂も彼が来ないことに怪訝そうにしていた。
鍵が閉まっていて中にいるのかいないのかも判断がつかない。
しかし携帯に電話をかけると中から音がする。
不審に思って本多は管理人に訳を言って鍵を開けてもらった。
「克哉ー? いるのか?」
薄暗い部屋。玄関に入った瞬間に鼻に付いた特徴的な臭い。
明かりをつけると、そこは几帳面な彼の性格からは考えられないほどに散らかっていた。
「克哉?」
どこにも克哉の姿は見つからず、
出ようとしたとき、不図気になったバスルームを覗く。
バスルームの扉を開けると、
急に臭いが強くなったのが分かった。
――鉄の香り。
ハッとして、バスルームの風呂場の扉を開ける。
そこに倒れた克哉を見て、本多は青ざめた。
真っ赤になった克哉を引き上げ、救急車を呼ぶ。
一命は取り留めた。
本多の連絡を聞きつけて片桐と御堂、キクチの社員も駆けつけた。
「何で...佐伯君が...」
涙ながらに片桐が呟いた。
静かに眠る克哉は、弱弱しい呼吸音を立てている。
手首にきつく巻かれた白い包帯。
彼の色白の肌にすっかり同化している。
本多は苦しそうに、喉を鳴らした。
「...」
御堂の頬を、一筋の涙が伝った。
自分の所為で彼は。
思わず病室を出ようとして、
本多の声に振り返った。
「克哉!?」
「っ...!!」
克哉が目を覚ましたようであった。
御堂は思わず振り返った。
「...、こ、こは...?」
「病院だ、お前、大丈夫か!?」
「...だれ」
御堂の足が止まった。
「誰?」
明らかなる彼の異常に、社員の一人がナースコールを押した。
そして数人が医者を呼ぶべく病室を走り出る。
それによって御堂と克哉の間を塞ぐ者がいなくなった。
「...さ、えき」
さっと克哉の血の気が引いていくのが分かる。
しかし彼には御堂が誰なのか分かっていないようだった。
ただ恐怖する。
「嫌だぁああああッ!! あああああッ!! ごめんなさい、ごめんなさい!!」
唐突に暴れだした克哉に本多が押さえ込む。
そして、押さえられた事に再度恐怖した。
本多を振り切って、ベッドから飛び起きると、近くの窓を我武者羅に開けようとした。
必死で、点滴の管も抜けてしまった。
本多がそんな克哉を止めようとした時。
窓が開き、
克哉はそこから飛び降りた。
御堂は、動けなかった。
そしてまもなく、ぐしゃり、と潰れる嫌な音がした。
開いた窓から悲鳴が聞える。
「...ぁ...」
病人の消えた病室は、しんとなった。
ようやく看護婦を連れてきた社員たちは状況が理解出来ず、ただ立ち尽くすばかりだった。
御堂の耳に、克哉の必死な「ごめんなさい」の6文字が木霊した。
「...さ、え、き...」
音の消えた世界で、
御堂は小さく、もう応えてはくれないその人の名前を呟いた。
而して彼は克哉がこの世から消えてしまったことを頭の中で理解をしようとした。
脳内が整理されていけばいくほど、彼の身体から汗が噴出す。
「あ...、」
震える両手を顔の前に置き、
自分が彼にしたことを思い出す。
自分が、彼をあそこまで追い詰めた。
愛していたのに。
彼に拒まれることが怖くて
あんな形でしか愛せなくて
それが結果的に愛する人を傷つける結果となってしまった。
あのときも、
自分が駆け寄って拒まれるのが嫌だった。
結局、自分が彼をコロシタ。
「ああああああああああああああああああッッ!!!!!」
御堂の泣き叫ぶ声が、虚しく病室に響いた。
それは潰れた紅い押し花にも届いて
茶色い前髪が、静かに風に靡いた。
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