忘れたくなんてなかった。
死ぬ時に何も残らないなんて、
そんなの寂しすぎる...
だって、そんな死には生きていた意味なんてないって思えるから。
せめて大好きな人だけは、この胸に痛いほどに刻みつけておきたかった。

自分も全部忘れていい。
でも御堂さんだけは、消えてほしくない。


写真をいっぱい残して、
手帳にいっぱい名前を書いて
したことは全部記した。

今日御堂さんが笑った。
今日孝典さんが困っていた。
今日孝典さんが

ストーカーなんじゃないかと思うくらいに書き記して机の中をいっぱいにした。
忘れないでいられるならそれでいい。



「ねえ本多。もし、この世の全てを忘れたまま死んじゃうとしたら
 どう思う?」

「なんだそれ」
ある時思い切って本多にこんなことを言ってみた。
「いや、え、映画でそういうのがあって、ホントにそうだったらどうなんだろうって思って」
適当な理由をつけて、意見を聞く。
できるだけ「普通」を装って、笑ってみせたりした。


「うーん、俺は嫌だよな。
 あの世行っても何も思い返せないってことだろ?
 最期はこう、生きてて良かったって思いたいじゃんか。
 それも無理ってことだろ」

「そうだよな」
同意の言葉を腹の底から搾り出した。

やっぱりそうだ。



絶対死ぬ。

その上で、孝典さんを忘れて死ぬのか
今...あの人を覚えているうちに、死ぬのか。


そんな選択肢が浮上した。


桜花時は過ぎねど見る人の恋の盛りと今し散るらむ

自分の中の孝典さんが永遠になるように
孝典さんの中の自分が、輝いているうちに永遠になるように


オレは、今まだ孝典さんを覚えているうちに、死にたいと思った。









何をやっても上手くいかないのは
昔から得意だったけど、

見事に自殺に失敗した。

遺書を書いて、
風呂場で手首がもぎ取れそうなくらい、刃をいれたその瞬間。

遅くなる予定の孝典さんが、
まだ9時だというのに帰ってきたのだ。


風呂場であるし、料理中に手が滑りましたなどと
言い訳などできる筈もなく、
激怒した孝典さんに車で病院に搬送された。




病院で怒鳴られ、オレは泣いた。
複雑な涙だった。

遺書に病気のことを書き記してしまったので、
孝典さんにはそれについて言及された。



「忘れる」
その言葉に眉を寄せた孝典さんは、
それでも最後までオレの話を黙って聞いてくれた。


「全部忘れて死んじゃうんです。
 自分自身も、生きた証も、孝典さんも」
口に出して、涙が溢れた。
「ごめんなさい、今まで黙ってて...」
「あと何ヶ月なんだ」
「え?」
「あと何ヶ月...一緒にいられる?」
「...あと...半年...くらい...」


孝典さんはその短さに静かに考え込んだ。
「不公平なものだな...。
 何故克哉が...克哉が何をしたと言うんだ」

苦しそうな孝典さんの言葉に、
オレは何も言えなくなった。


暗黙のまま抱きしめてくれた孝典さんに、
オレは至極安堵した。
暖かくて、このぬくもりを忘れたくないと思った。


忘れてもすぐに、
孝典さんを焼き付けなおせばいいのかもしれない。

最期まで隣にいてくれますか?







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