飛び出してロビーまで来た。
ロビーの椅子に腰をかけ、私は走ってきた所為と動揺によって乱れた呼吸を整えようとした。

「どちら様ですか」
その他人行儀な彼の台詞が脳内を往復し続け、
冷や汗がこめかみを撫でた。

分かっていた。
分かっていたが認められない。

これは悪質な悪戯か。
そもそも人生なんざ、神の作り出した戯曲なのだと思う。

忘れられた。
この世でもっとも愛する人に。

もうこの唇に彼の唇が宛がわれることはないだろう。
もうあの唇が私に愛していると告げることはないだろう。
もう彼の柔らかな瞳が私に笑いかけてくれることはないだろう。

過去に当然であったように行われていたことが
全て否定されるとき。

私は過去を憎んだ。
こんな思いをするなら
最初から出逢わなければ----。






そう思いかけてハッとした。
出逢わなければ良かった?
そんなはずがない。
出逢えてよかった。

二人でいた時間は幸せだったのだ。
沢山のことを二人で見て、
そこから、一人では気付けなかったことを見出し、吸収して

愛する人に忘れられることは果てしなく辛い。
しかし同様に、もしくはそれ以上に、愛する人を忘れる方が辛いのだ。

克哉が書き留めた私の名前。
机の引き出しに溢れかえったメモの山には
二人で旅行したこと、二人で食べたもの、ワインのこと、 お互いのぬくもり、
全てが書き記してあった。
忘れたくないと、必死で克哉が残したものだ。


本当に、克哉は何もあの世に持っていくことができないのだろうか。
せめて、せめて最期の瞬間くらい、残るものではないだろうか。


ならば、私がすべきことは唯一つ。
その最期の瞬間に、そばにいてやること。


克哉が私を覚えていようがいまいが、
私は克哉を覚えている。
克哉の全てを覚えている。

そして克哉を愛している。
私を忘れた彼さえも全て。







呼吸は整っていた。

私は椅子から立ち上がり、再び病室へ戻った。



「克哉」
「ああ、さっきの。お名前は? オレに用ですか?」
「そうだ。私の名前は御堂孝典だ」
「御堂...さん」
空疎な声。
彼からそんな風に名前を呼ばれるのは初めてかもしれない。

「御堂さんは何でここへ?」
「克哉の見舞いだ」
「オレの?」
驚いたように目を見開く克哉は、その後で無邪気に笑って見せた。
「ありがとうございます」

それはとても自然で、

だからこそ欠如しているものがあった。


私には彼の笑顔が、眩しすぎて、また柄にもなく泣きそうになってしまった。







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