十一月も終わる。木々も冬に備えて葉を落とす。静かで寂しく、それでいて趣深い季節だ。学校に備えられている大きなホールで、拍手の音が響いた。丁度葉月がピアノ伴奏をするラフマニノフのピアノ協奏曲第二番が終わったところだ。レベルの高い選曲と、それに似合った演奏がゲストとして来ているプロまでも驚かせる。いよいよ華月の演奏である。舞台裏に合奏組みのメンバーが退場していく。 「緊張する...。ってか死にそう」 戻って来た葉月が華月の肩を叩いた。 「魔界のやつらも来てるぞ」 「うわ、プレッシャー増大...。僕魔王だよ? 失敗できないじゃん」 しなしなと小さくなっていく華月の肩を再度叩く。 「大丈夫だよ。ほら、スポットは美裕だよ」 舞台演出に慣れている演劇部が幕の上下やライトアップを担当している。スポットの席からは美裕がこちらに向かって手を振っている。 「大丈夫。お前の気持ちをぶつけて来い」 伝えたい事。華月は静かに目を瞑って、開いた。 拍手が華月を迎える。客席には父親の姿もあり、その横にはセリアー夫妻もいて、少し驚いた。上空ではカヅキが執事を乗せて落ち着かなく飛び回っている。ヴァッサーゴやケルベロス、フェネクスやセエレもいる。彼らを含める観客達をゆっくりと見回すと、それから最後に美裕をちらっと見た。 「がんばれ」 口がそういっているのが見える。華月はそっとバイオリンを構えると、弓を弾いた。 夢の中でタルティーニが悪魔に魂を売ってレッスンを受け、その中で悪魔が彼に聞かせた曲。落ち着いているなかに哀愁を感じさせる第一楽章で始まる。それは美しくも儚く、まるで夢のような旋律で空気に溶けていく。そんな演奏から一転して第二楽章は大胆な跳躍音形の冒頭モチーフで始まる。第一楽章が夢ならば、第二楽章が悪魔の登場を表しているようだ。第三楽章のアレグロ・アッサイの部分で絶え間ないトリルが現れる。まるでそれは魂を奏でているように、想いを綴り、人の心に届いた。悪魔のトリルはまるで天使の歌声のようだった。 色々なことがあった。それは非現実的で、フィクションのようで、それでいて、事実。そして、それはどれも真実だった。あの時カヅキが教えてくれた、事実は変えられないけれど真実は変えられるということ。その言葉がどれほど支えになったか。何も間違っている事なんてない。緻密に構成された運命の中で、自分が生まれたということも、列記とした真実。迷って、白い波のように行ったり来たりしながらもそれでもきちんと前に進んでいた。答えに行き着いた。華月が皆を大切に思う気持ちだけ、周りも華月を大切に思っているのだ。全ては今まで出会った人たちのお陰。誠一と由里奈、セリアー夫妻と、葉月を偽っていた魔王と、祐樹を偽っていた葉月。カヅキをはじめとする魔族たち。そして精霊たち。そして、美裕さん。 残響が静かに溶けていく。果敢なくそれが消えたとき、人々は口をぽかんと開けたままだった。まるで夢から覚めたように目を開き、それぞれが拍手を贈る。 「流石魔王様です」 「泣くなよ、執事!! 俺の毛が濡れてべちょべちょだ!」 「華月様かっこいいな」 「ちょっと仕掛けてくるか」 「やめっ、フェネクス!」 フェネクスが華月の上空で翼を羽ばたかせた。キラキラと光が雪のように降り注いだ。それは魔界を信じていなければ見えることはない。 「綺麗だわ」 「グレイスさん?」 グレイスがハンカチで鼻を押さえながら静かに呟いた。誠一は演奏のことだと思って、そうですねと頷いた。 「綺麗」 スポット席から美裕が呟く。その後ろには葉月が立って拍手を贈っている。 「何であんたいるのよ」 「一応元演劇部だし」 「元、ね」 葉月は正式にオーケストラ部への転部を決めていた。 華月が自分の気持ちを認めるのに、それから一ヶ月くらい掛かった。多分、自覚するのは早かったのだろうが、それを受け止めるまでに時間がかかった。美裕を、恋愛対象として好きだなんて。そして、それを一番最初に読み取ったのが葉月だった。 「最近華月さんおかしくない?」 美裕はまだそれに気付いておらず、ただ様子がおかしいとしか思っていないようだ。 「情報を差し上げましょうか。料金はスペシャルプライスで千円でどうでしょう」 「金なんて払うか」 「冗談はさておき。...淡い恋心って奴だね」 ふふふと気味悪く笑うと楽しそうに葉月はどこかへ行ってしまった。 「何それ」 葉月と入れ違いに、華月が入ってきて『恋心』の意味を悟った。入学当時のあのゲームをしていたらそれは美裕の勝利ということ。でも今の美裕は様々な思いが入り混じって困惑した。嫌なわけではない。むしろ、魔王から華月を奪還したときからもう自分の気持ちに少しずつ気付いていた。男として彼を好きだということ。ただ、どうすればいいのか分からない。純粋な彼の微笑みをなんとなく意識してしまう。彼だって辛いに決まっている。人を恋愛対象として好きになることにきっと罪悪感を抱いているから。 「か、づき、さん」 意識をしすぎて声が上擦る。好きでもない人と話すのはある意味簡単である。それは我慢をすればいいだけだから。しかし、好きな人と話すのは難しい。美裕のプライドの高さが更にネックになる。 「はい?」 返事が苦しそうなのが分かる。本当に僅かな変化だ。どうすれば華月を救える? それを美裕は考えた。友情は人を強くするのに、恋愛というのは人を強くもするが弱くもする。そんなことを誰かが言っていた気がすると美裕の脳がぼんやりと考える。名言なんて浮かべても、そんなものは人の意見にしか過ぎないのに。 「屋上、行こうか」 「風邪引きますよ」 「静かなところに行きたいの」 美裕の中で、一つの答えがまとまっていた。 屋上はやはり風が冷たかった。十二月の空はとても高く、雲一つない。そこで、美裕はぎゅっと華月の手を引いた。 「うわっ」 「頼むから黙って、ただ愛させてくれ」 ジョン・ダンの名言を借りて。プライドが邪魔して自分の言葉には出来ないから。 「み、みゆっ...」 「黙って」 華月を強く抱きしめた。そして彼女は、続けて歌うように言った。 「もし貴方の体にこの手を触れて汚したのであれば、償いのために接吻させて欲しいのです。私の祈りを聞き届けてください。でなければ私は絶望してしまいます」 彼女は「ロミオとジュリエット」のロミオの台詞を言った。それはとても自然で、聞いていて心地のよいものだった。 「で、でも、僕は」 「私は、華月さんが好きなの。どんな存在であろうとも、華月さんが好きなの。自分に正直になってよ。自分に嘘をついては駄目」 「でも僕は人を好きになっちゃ」 「そんなこと誰が決めたの? 私は華月さんの本当の意見が知りたい」 「...」 沈黙する華月に、美裕は静かにその抱きしめていた手を離した。 「私ね、ずっと好きだったのかもしれない。だから、あの時携帯電話を見つけたとき嫉妬しちゃったんだと思うの。ずっと好きだったから、逆に華月さんが普通とは違うって聞いたときも、困惑はしたけど華月さんの所にいけたんだと思うの」 そうして美裕は続けた。彼女は華月に背を向けて、空を見て話し出した。 「普通ってさ...。普通ってなんなんだろう。もし人間が当たり前に華月さんみたいな力を持っていたら、それが普通になるんだよね? それって本当に曖昧だよ。それに、普通じゃないってことって、それって特別ってことじゃない? 私は『貴方は特別ね』って言われたら嬉しいよ。」 一瞬ちらりと彼女は華月を振り返る。でも彼はまだ俯いたままだった。 「倫理の宿題、覚えてる? 人間とは何か。世界の偉人はさ、『人間こそは笑い、また泣くところの唯一の動物である』『言葉・シンボルを操る動物』って述べてるんだよ。それってどれも華月さんに当てはまる。ってことは華月さんはちゃんとした人間なんだよ。それに...、『愛のない人生とは、朝の来ない夜のようなもの。』『愛の光なき人生は無意味である。』って言ってる。無意味な人生なんて嫌だよ」 いつの間にか、美裕の声が震えている。 「私は、華月さんが好きなの。全部、全部、全部好きなの」 ぽたぽたと、コンクリートに涙が零れた。 「僕は、人間、ですか?」 確かめるように、華月はゆっくりと問うた。 「そうだよ、世界の哲学者がそう言ってるんだから」 「そうか...。...良かった」 華月は静かに目を瞑ってその言葉をもう一度胸に焼き付けた。そして、後ろから、美裕に抱きついた。 「僕も、美裕さんのことが好きです」 チャイムはとっくに鳴っていた。 「和泉の弟、和泉の兄はどこだ。あと柏崎」 「はっ、え...。うわ最低...。えっと多分二人とも下痢で」 教師が出席簿を見ながら険しい顔をしている。葉月はケッと呆れた溜息をつくと、適当に誤魔化した。 「呼んできましょうか。では女子トイレ進入許可を」 教室中に噴出す声が漏れる。 「ちょ、授業始まってるじゃない!」 「ま、待って、美裕さん」 バタバタと廊下を走る音がする。 「二人揃って下痢とは...お気の毒なこって」 教師が教室の前で腕を組んで仁王立ちをしている。二人同時に戻って来たところで、下痢ではない事が知れて廊下に立たされた。誰もいない廊下には、各教室から教員達の声だけが響く。 「今どき廊下に立ってろだってさ」 「古風というか...」 「そうだよね」 二人でボーっと窓の外を眺める。 「退屈ですね」 「そうかな? 楽しいよ」 嬉しそうな美裕。 「だって、華月さんと二人で廊下に立ってるもん」 「あ...。それもそうですね」 二人は無言で、互いの手を絡ませた。もう離れない。幸せな恋人達。 back/あとがき |