祐樹は尋常ではなく焦っていた。
「何でアンタと二人っきりで行動しなくちゃいけないのよ」
「五月蝿い。僕だって御免だよ」
「何よ...。アンタが誘ったんじゃない」
「華月がいなけりゃ意味がない」
自由行動中に悶着を起こしていた。
「何よ...。華月華月って。アンタホモ?」
美裕の無神経さに腹が立った。祐樹はかっとなって美裕の胸倉を掴んだ。
「お前に華月の何が分かるんだよ! 華月は」
いつも笑顔な祐樹からは想像もできない表情に、美裕はギョッとしている。
「...あ...、ごめん」
衝動的な行動を謝罪して顔を逸らす。
「何よ...。言ってみなさいよ」
解放されてまた勝気になっている美裕に顔を合わせないまま、祐樹は話し出した。
「君には彼の痛みなんて分かるはずがない」
「何それ」
「僕の人生は最初から狂っていた。そして、華月の人生も」
「は?」
ポツリと呟いた彼の言葉に美裕は顰蹙した。
「僕の本当の名前は、葉月だ」
「何それ...。意味不明」
「黙って聞け、この性格ブス」
「な...」
グラバー園の広場で、祐樹は美裕を振り返って真剣な眼差しで話し出した。
「魔界の扉が開いてる」
「魔界?」
美裕はそのアンリアルな単語に思わず噴出しそうになったが、祐樹の真剣な表情に笑えなかった。
「美裕は噂流すような低レベルな奴じゃないからと思って言うけど、華月はただの人間じゃないんだ」
「...ただの...人間じゃない?」
どういうこと? と美裕が問う前に祐樹は勝手に話し出した。
「根本的なところは僕にも分からない。でも華月には特別な力がある。魔王も、この世界すらも滅ぼす事が可能な程の力を、ね」
「何で...」
「僕は彼の双子の弟として生まれるはずだった。だけど、彼の誕生を許さない魔王はね、僕の身体から僕を追い出して、僕の身体を支配したんだよ。追い出された僕は死者みたいなものになって、何とか魔界に辿り着いたんだ。そこで、魔界のトップクラスである兵士に逢った。僕はね、その兵士に『カヅキ』って名前をつけて人間界に魔王が来たこと、華月の能力について知らせた。そしたらカヅキは僕を人間界に再度送ってくれた。そこで華月の幼馴染になる、五十嵐祐樹として育つ事になったんだ」
複雑な話に、頭の回転の速い美裕も少し混乱していた。
「結論は僕が葉月で葉月が魔王ってこと」
一言で纏め上げると、多少は理解したのか、弱々しくこくりと頷いた。
「今そのカヅキに華月のガードをしてもらてるけど...。今の状況からして明らかにおかしい」
「欠席してる事?」
「そうだ。二人同時に欠席...、変でしょ?」
「うん。...で、華月さんはどこまで知ってるの?」
「自分が人間ではない事だけ、かな」
表情が真剣そうなものから切なそうな暗い表情に切り替わった。
「言えばよかったじゃない」
そう美裕に攻められて、祐樹は少し沈黙する。
「そんな隙はなかった。でもね、僕は確かに蘇った存在だけど、それでもただの人間には変わりないんだよ。相手は魔王。タイミングを外したら即刻ゲームオーバーだ」
「で、魔王はあなたが葉月だって知ってるの?」
大分状況が掴めてきたのだろう。そこは流石美裕だと言えよう。どんどんと質問をして、自分の中にある疑問を潰していく。
「知ってるだろう」
口調から、相当の悔しさが感じられる。
「親しくしておいて、華月を自分の右腕のように扱う事が魔王の目的だ」
そう、いつでもそうだった。祐樹はとにかく、華月がそんな偽りの弟にだけ心を許すことを恐れた。だから自分にも頼るようにと華月を影で支えていた。華月と葉月が二人きりの時間を極力亡くそうと葉月をさり気無くマークし一緒にいた。そして華月にはカヅキを護衛につけた。そもそも、小学校時代のイジメだって、提案者は葉月であったのだ。母親を殺したのも葉月の計画的犯行であった。
「ずっと地獄だったんだよ。華月はきっとそれを『自分は存在してはいけないから、いつもこういう目に遭うんだ』と思ってる。でもね、華月が悪いわけじゃないんだ。魔王が全て仕組んだことなんだよ」
美裕の胸が音もなく痛んだ。
「カヅキが守ってくれてるといいんだけど...」
空を見上げた時、祐樹は確実に魔界の者の声を聞いた。
「カラス」
「いや、あれは、ただのカラスじゃない」
空からカラスが急降下したと思えば、祐樹の腕に留まった。
『俺だよ、カヅキだ。ケルベロスに体を借りてる』
カラスが言葉を話した。美裕はギョッとしたが、それ以前に、ずっとケルベロスというものは犬のような姿で頭が三個あって、というイメージを持っていたのでカラスの姿のそれにきょとんとしている。
「華月に何かあったのか」
『俺ずっと拘束されてて...今どういう状況か分からない。でも確実にヤバイ。早く戻んねぇと』
「そうか...分かった。抜け出すか」
「抜け出す!? そんなことできるわけないじゃない」
「そうだね、まず薬局にいこうか」
祐樹の提案の意味がまだ理解しきれていないまま、とにかく薬局に足を運んだ。そこで祐樹が買ったものは懐炉だった。店員も怪しそうに二人を見ながら会計を済ませる。
「何よ、懐炉って。今は夏よ?」
「そうだよ。これで...」
懐炉で身体を温めだした彼。
「保健医の所につれていってくれ」
顔を火照らせた祐樹が笑って言う。
「いいね、僕は唐突に高熱が出たんだ」
「...手段は選ばないわね、あんた」
「そりゃ当然」
祐樹と美裕の演劇部最強ペアが挑む、本気の演技だ。
 上手い事騙す事が出来た。
「美裕...お前もか」
カエサル台詞のような台詞を吐き捨てる祐樹。ギリギリの所で美裕も具合が悪いふりをして、結局二人で帰ることになったのだ。
「無茶するよ」
「だって私も...し、心配...だし」
「くすっ」
「何よ」
「喧嘩はどうしたの? 気になってたんだけど結局何が原因なわけ?」
祐樹に問われてドキッとする。
「僕は全て話したんだよ? それくらい話してくれていいじゃない?」
満面の笑みで迫る彼に彼女はうぐ、と喉を鳴らした。
「華月さんに彼女がいるみたいなのよ」
間があった。祐樹の脳内が一瞬バグをしたようだ。
「は?」
「彼女。もうヤっちゃったっぽいのよ」
更に間が出来る。彼の脳内は完全にフリーズをした。石化している。白くなった祐樹を無視して美裕は話す。
「携帯を見つけたの。由里奈っていう女の人だった」
「...ゆ、ゆり、な?」
「そうよ。結構年齢差があるみたい」
「年齢差...?」
祐樹の頬を冷や汗が伝った。
 何とか一時間五十分かけて東京に戻って来た。空港からタクシーで華月の自宅に急ぐ。
「お客さん、珍しい鳥を連れてますね。カラス...鳥獣保護法だかで飼えないんじゃないのかい?」
「そうなんですが...怪我していたのを助けたら懐いてしまいましてね」
馴れ馴れしいタクシーの運転手に思わず「口を動かしてないでスピードを上げろ」と言ってしまいそうになるが、飲み込む祐樹。営業用スマイルでその場を凌ぐ。
「カヅキ、お前隠してることあるだろ...? 全部、話せ」
カヅキに耳打ちをする。
『えっと...あの...』
カヅキが目を逸らして泳がせる。カヅキの視線を追ってくる祐樹を後退をして回避する。
「母さんは生きていたのか」
『何といいますか...生きてたみたい...だなぁ』
「で、華月と付き合っていたと」
『何ていうかまあ、そんな感じ...?』
あはは、と誤魔化そうとするが誤魔化しきれないカヅキ。祐樹の怒りは爆発寸前だ。
「何故言わなかった?」
『いや、な、なんでだろ...』
「そうか、肉体関係なんて単語がお前には発せられなかったと」
ぷふ、と含み笑いをする祐樹に、カヅキが咄嗟に声を荒げる。
『ち、ちげぇよ!!』
唐突に聞えた第三者のしゃんがら声に運転手が不審に思いバックミラーを確認する。
「ゴホッ、すみません。走ったからかな、喉をやられてしまって」
祐樹がもっともらしく咳き込む。
「カヅキ、一度魔界に行って使える戦闘要員を集めて来て。華月の家で集合ってことで」
『...了解した。さっきのことなんだけど...。由里奈はこの前死んだんだよ』
「...え?」
祐樹が目を見開いた。
『魂も消滅した。俺は由里奈に助けられたんだよ。由里奈のお陰で結界を脱出できたんだ』
「...そうか...」
その始終を祐樹に報告すると、カヅキは外へ飛び立っていった。
「美裕、華月の彼女の話だ」
そう切り出すと、祐樹は由里奈が華月の実の母親である事、母親は一度華月たちが幼い頃に死んだと告げられたが、それは架空の事実で、本当は記憶喪失になったまま生きていたということ。更に由里奈がそんな華月と出会い、華月は拒否できないまま肉体関係を持ってしまったということ。
「そ、そんな...」
運命の残酷さを思い知らされた美裕。自分は今までちやほやされて何苦労無く生きてきた。それが当然だと思っていたから、それが幸福であるとも気付かずに更なる幸福を求めた。しかし彼はどうであろうか。こんな残忍な酷薄な運命を背負いながらも、彼はそれを誰かに打ち明けた事があったであろうか。誰にも迷惑をかけまいと一人でその重すぎる荷物を背負い、精一杯生きてきたのだ。
「私は」
更に彼の重荷を増やした。吐血だって彼のその重荷が許容範囲を超えたからなのだ。
「私、何も知らなかった」
何て謝ればいいのだろう。彼に、何て謝れば許してもらえるのだろう。美裕の表情にそれを読み取った祐樹はぼそりと呟いた。
「華月は謝ってもらうことよりも、認めてもらうことを望んでるんだよ」
ただの人間ではないという事実を受け入れてもらう事が彼にとって一番欣幸なことなのだ。
「だからもう君は華月に会うだけだ」
「え?」
「君がこうして華月を心配して来てくれた。それが華月を受け入れている証拠」
にっこりと笑う祐樹の表情に、美裕は我知らずに涙を零した。
 家に着いた。運転手に札を数枚手渡すと、急いで家の入り口に立った。
「誰も寄せ付けないってか」
鼻で笑って見せる祐樹の表情は焦っていた。これは魔王の結界だけではない。華月の結界も混合している。
「華月...」
きつく唇を噛み締めた。悔しくて仕方が無い。少しでも自分に能力があれば。
「御札とかは効かないの?」
「魔王にはそんなものは効かない」
「そう、よね」
二人の間に沈黙が訪れる。どれくらい時間が経ったのかは分からなかった。現実的には数分も経っていないのだろうが、その沈黙は重たく、まるで数時間のものだったように感じる。祐樹は入り口の階段に座り込んでいた。
『祐樹!!』
ケルベロスに宿ったまま、空から急降下してくるカヅキ。それを待ちわびていたように祐樹は立ち上がる。
『皆来てくれた』
大勢の魔界の者が華月の家の周りに集まった。美裕はその光景に圧倒された。
『密かに力を蓄えていた反逆者たちだ』
美裕は少しばかりその状況に恐怖を抱いている。
「わ、私にも見える...」
自分にも見えるということは他の一般人にも見えているのでは、と辺りを見回す。
「大丈夫ですよ、お嬢さん。魔界の存在を知るものにしか私達は見えません。」
丁寧に美裕に説明したのは魔界の偉大なる王子ヴァッサーゴである。そんな世界があるはずがないと人間達は考えているからである。唐突にこんなものが見えたら人間達は脳内の許容範囲を大幅にオーバーし、人格崩壊を起こしてしまう事であろう。それらをきちんと理解したものだけが見ることができるのだ。
「分厚いなぁ、流石、魔王と華月様って感じ」
ライオンのような姿をしているヴァプラがけけけ、と喉の奥から笑う。
「いいか、頼むぞ皆」
祐樹が必死な声をあげて頼み込む。
「魔界が懸かっているんだからな。当然だ」
鼻で笑い、人間を罵倒するフェネクス。赤い炎の翼を広げて嘲笑すると、祐樹への視線を外し、美裕を舐めるように見始めた。
「お前、手伝え」
「は?」
「祐樹は一度は魔界に立ち入った者。この結界の隙間から入るのはそれだけで困難になる。ただの凡人であればそのリスクは軽減する」
凡人凡人と笑いながら繰り返されることに美裕は少しばかり腹が立ったが、今この場で一番中に容易く入ることが出来るのは自分しかいないと思うと少し気分がいい。
「お嬢さん、気をつけてくださいね。相手は魔王ですから。貴女には治癒能力がありません。魔王に見つかった時は即死と考えてください」
慇懃な態度にもかかわらず、その口から「即死」と聞いて鳥肌が立つ。しかし自分の所為もあってここまで華月が追い込まれたのだと思うと、断るわけにはいかなかった。
「行きます」
大丈夫、他の人間よりは自分の方が優れている。そう自分に自信を持たせると、拳を握った。
「華月様はまだ不安定です。結界もかなり歪んでいる。それに小さな穴を開けましょう。魔王のものは...、フェネクス、どうしますか」
「俺かよ」
「ふふふ、そうでした。セエレ、貴方の得意な運搬作業ですよ」
ヴァッサーゴと同じく王子の地位にあるセエレが他の侯爵たちを掻き分けて姿を現した。運搬面において天才的な能力を有する彼は、わざとらしく顎に手を当て考える。
「何も知らない奴をまず入れて、魔王を呼び出す必要がある。魔王の弱点というか、悪い癖。魔王の結界は結界内に彼がいない限り、それを壊してもしばらくは気付かれない」
に、と口元を緩めて悪戯っぽく笑う。
「僕たちが見えない人なら誰でもいいよ。そういう人は結界も気にせずに入れちゃうんだ。でも、魔王を呼び出さなくちゃいけないからね、少し親しい人のほうが良いと思うよ。そしたら結界に小さな穴を開けて美裕さんが中に入るんだ」
「了解した」
祐樹が立ち上がって携帯電話を取った。
「先ほどのカヅキの話だと...、まだ父さんは日本にいるとみた」
「何で分かるのよ。大体電話番号なんて」
「そういう性格だからさ。電話番号なら、幼馴染だもの。知ってるよ」
先の先まで読んだ祐樹の行動に美裕は圧倒された。
「もしもし? 華月のお父様ですか。僕です、五十嵐祐樹です」
軽薄な口調で彼は「自分の父親」に電話を掛け始めた。
「華月君の様子がおかしくて...すぐに来て欲しいんです。華月君の様子がおかしいことは葉月君から聞いているんじゃありませんか? それでおじさん、日本にいるんではないですか?」
美裕は電話口でハラハラとした様子で爪を噛みながら行ったり来たりを繰り返している。
「来てください。お願いします」
ほぼ強制的に電話を切る。
「で、何でアンタ、葉月が電話したって分かるのよ」
「勘。あえて葉月は父親に言ってると思ったんだよ。それで更に父親に嫌味か何かを言って寄せ付けないようにしてるとみた」
「勘って...」
呆れた顔で溜息をつく彼女に、ニッと口元を緩ませて言う。
「所詮悪魔の王様だ。運命を完全に支配してる究極の存在は神でしょ」
「何よそれ」
「ポジティブシンキング。...さて、僕らは少し遠くから拝見するといたしましょう」
「何で?」
「僕らがいたらおじさんだけで中に入ってくれないでしょ」
美裕も感心するほど先を読んでいる。二人は侯爵たちの背中に乗って、上空で待機をすることにした。
 一時間もするとタクシーが来て、それが華月の家の前で止まった。上空で二人は息を飲む。誠一はてっきり祐樹がいるのだと思っていたようで、辺りを見回した後僅かに首を傾げると、鍵で中に入っていった。
「おじさん、大丈夫かしら」
「ここで手は出さないさ。...ほら出てきた。魔王としては今の状態の華月を見せないためにも外に父親を出す必要があるからね。確かにただの人間だし魔王が殺そうと思えば瞬殺だけど、ここで能力を無駄に使うことはできないのさ。華月の能力をある程度制御させるにはそれくらい力が要るってこと」
「ここまでも結構な力を使ってるわけですし、第一人間の姿である彼がそこまで膨大な力を放出できるはずがありません」
祐樹の読みに、ヴァッサーゴが追加する。人間の姿になっている分、使える魔術も弱まる。
「さて、見えなくなったぜ。きっと数分で戻ってくるだろう」
「え、早!」
「当然だよ、魔王だってそんなに華月を放置していくわけないもの」
セエレが早く早くと皆に合図を送る。それぞれが剣を出し、攻撃体勢をとった。
「これ、鍵ね」
「...もうどこからツッコんでいいのやら」
「信じてるよ」
まっすぐと美裕にその思いを託した。美裕は短く返事をする。
「ん」
美裕と祐樹が家の前に立ったとき、フェネクスのけたたましくそれでいて美しい歌が響き、それが合図となって一気に華月の結界が破られた。祐樹が、美裕の背中をドンと押した。
 美裕は押されて結界の中に入ると、バッと走り出して鍵を乱暴に開けると家の中に入った。家の中は静謐としていたが、その中に明らかに異質な空気が漂っていた。そう、あの魔界の者たちと同質の臭いがする。華月の部屋をまずこじ開ける。
「...ひっ」
白かった華月の部屋。小奇麗な第一印象だったその部屋の窓はシャッターで完全に光を遮断されており、部屋全体が黒く血塗られていた。足が竦む。でも、早くしなければ。
「っく、か、華月さん!!」
とにかく手元の電気をつけようとする。壁に手を添えるとベトリとした感覚が残りながら、電気がパチンと点いた。手には紅い華月の血が付着した。その部屋には誰もいなかった。次は葉月の部屋に足を運ぼうとした。その前に、キッチンから包丁を持ち出した。やはり美裕に取り巻く恐怖は尋常ではないもので、それをなんとかして断ち切りたかったのであろう。葉月の部屋に行くと、ドアノブにゆっくり手をかけた。
「っ」
バチンと何かに拒まれた。静電気のような感覚が指先に走った。
「結界!?」
美裕はすかさず包丁でドアを切りつけた。反動は凄かった。床を踏みしめて、ぐ、と前に体重をかける。
「くそっ、華月!!」
結界のお陰で逆にこの中に華月がいることに確信が持てた。唇を強く噛み締め、有りっ丈の力で前に身体を入れる。
「華月!! 私だっ、美裕だ!! ここを、開けろ!!」
いつもの美裕からは想像もつかない険しい口調で怒鳴った。結界は抵抗を続けた。美裕はぜいぜいと荒い息を漏らしてその場に崩れた。手には肉刺ができ、赤くなっていた。
「華月さん」
涙が、こぼれた。華月は自分を拒んでいると気付いたから、美裕は何年ぶりかに涙を流した。
「ごめん、ね。華月さん」

 美裕が小さい頃だった。父親の仕事の都合で転勤が多かった。幼稚園も三度くらい変えたし、小学校も四校くらい通った。折角仲の良くなった友達ともすぐにお別れ。ようやく落ち着いたのは華月たちの通う中学校だった。エスカレーター校で有名な学校であったが、所詮はこれも一時の居場所。美裕はあまり誰かと深く付き合うという事はしなかった。別れが辛い事を知っていたから、もう出会わなければいいのだと思ったのだ。転校初日、偶然美裕は華月の隣の席になった。別に美裕は華月を嫌っていたわけではなかった。好いてもいなかったが、単純に彼女には興味がなかった。
「柏崎さん、僕よく忘れ物しちゃうから迷惑かけちゃうかもしれないけど...、よろしくね」
無邪気な笑顔だった。華月は笑って美裕に言った。
「学校案内するよ。迷惑かけちゃうと思うから、その前払い。ね」
そんな事をされても仲良くなる気なんて到底なかった。迷惑をかけられるならそれでプラスマイナスゼロにしようと思っていた。何に惹かれたのかなんて、分からなかった。でもこの笑顔を、とても放っておく気にはなれなかった。
 彼の噂を集めた。何でこんな事をしているのか自分でも分からなかったが、何となく気になったからクラスメイトや先輩、後輩から彼に関する情報を仕入れる。皆言うのは彼の良い噂ばかり。頭が良くて、性格も良い。お金持ちで、顔もそれなりに良い方。そこで彼女は不図した考えが浮かんだのだ。華月を落としてみようか。どうせすぐに転校するに決まっている。ちょっとしたゲーム感覚でしてみたら退屈凌ぎになるだろうと美裕は考えた。今までだってかなりの男にもてた美裕は自分に自信があった。華月も畢竟は男である。一ヶ月で落とせたら勝ちというルールを課すと、次の日からそのゲームを始めた。
 一ヶ月というものはあっという間だった。色々仕掛けはしたものの、全てに引っ掛からなかったし、掠りすらもしなかった。自分が敗北したのだ。溜息をついていると祐樹がやってきた。
「華月になんかしようとしてるね」
「終わったの、ゲームオーバーよ。負けたわ」
「そう、当然だよ」
「何でよ」
自分を罵られているようで腹がたった美裕はきつい口調で言い返す。
「彼は誰も受け入れないからさ」
誰にでも笑顔を振りまく彼が、誰も受け入れていない。それはとても不可解な事実であった。
「だから無理。彼は誰も愛さない」
その迷語は、美裕の中で解せず、呪文のようにも聞えた。
「だから君も恋愛感情を彼に持たせるようなことはしないでくれ。彼はそれを持ちたくないんだよ」
「な、何それ」
「じゃあね、僕が言いたいのはそれだけ。それ以上でもそれ以下でもない」
ふわりと彼は美裕の前を去り、華月の元へ行ってしまった。何となくその言葉が気になって結局中途半端に友達のような関係をとってきていた。その意味がようやく分かった。

 いつからこんなに彼を好きになってしまったのだろう。これは友情というものなのだろうか、それとも――。
「ごめんね、ごめん」
無視してごめん。困らせてごめんね。
「華月さんが好きだから」
華月が好きだから。華月が人間であろうとなかろうと、自分に微笑んでくれた華月が大好きだから。プライドなんてもうなかった。美裕は泣きながら言った。
「戻ってきて」
包丁を再度握る。そして、ドアに突きつけた。
 声が届いたのだろうか。扉が、結界が破られた。美裕は先ほどの華月の部屋よりも無残な部屋に息を呑んだ。
「か、づ、き...」
悪臭にはもう慣れたと思っていたが、再度鼻を突き抜ける酷い臭いがした。血の臭いというよりも血管そのものの臭いといって過言ではないだろう。美裕はその部屋に静かに足を踏み入れた。窓は完全に閉じられ、シャッターまでしてある。
「華月さん」
金色の何かが部屋の奥で光っていた。
「か」
名前を呼ぼうとして愕然とした。ナイフで何度も自分を切りつけている華月が部屋の奥にいたのだ。
「な、何を」
「あ」
美裕の問いかけに、華月が顔を上げた。それは至極無邪気な笑顔で、狂っていた。
「こうするとね、はーくんがよろこぶんだ」
その口調はまるで幼児のものであった。
「ほら、おねえさんのからだもぼくのちでまっか」
ガラス玉のような瞳で、うつらうつらと言葉を発する。それはまるで人形のようであった。
「はーくんはあかいのがすきなの。ぼくのあかがすきなの」
吐き気が襲ってきた。肉を刺す音が何度も何度も美裕の脳の中でエコーする。時折骨の砕ける音さえも聞える。
「どうしたの? おねえさんはあかきらいなの? でもいいんだよ。ぼくははーくんだけによろこんでもらえればいいんだから」
唾液が口内で粘度を増し、喉に張り付く。
「はーくん、はーくん」
壊れた彼を美裕は思わず抱きしめた。首筋から見える骨を直視したが、それはすぐに回復していた。
「どうしたの、おねえさん。ぼくはもっときらなくちゃいけないんだ。どいて」
何も聞えないふりをした。華月の手からナイフを奪い、華月の手を引いた。
「葉月が外で待ってる」
「うそ。はーくんはここでまってろっていった。だれもしんじない。はーくんだけ」
美裕は華月の手をそれでも引き続ける。華月はナイフを探して暴れ始めた。
「早く行くの!!もういいわ、もっと血まみれにしてやるんだから」
窓を包丁で叩き割った。そして傍にあった椅子で、シャッターをぶち壊す。女の馬鹿力というものであろうか。華月をそこから突き落とす。もう頭はいかれているようだし、これだけ切って生きているということは二階から落ちても死なないということであろう。華月を無理矢理窓の所へ引き連れてくると、思い切り背中を押した。
「はっ、み、美裕!?」
外から見ていた祐樹や他の侯爵たちも唖然だった。下に落ちたのを確認すると、美裕は出口に走った。
 扉を開けようとした時、空気が変わった。それが葉月が近づいてきた証だということはすぐに分かった。迷わずに扉を開けて華月を落としたところへ急ぐ。
「美裕! 早く!!」
「分かってる!!」
血まみれの華月に更に土や葉っぱが付着する。
「はー、はーくん...、はーくん」
なんとか結界の出口まで引き摺っていくと、祐樹が華月を抱きしめ、そしてセエレの馬に乗って少し離れたところへ逃げる。美裕も黒い鶴に姿を変えたケルベロスの背中に乗って回避した。剣を持つ者たちは一斉にそれを抜いた。道の先に、葉月、いや、魔王が立っていた。
 華月は相変わらずだった。セエレの馬の上で、華月の体に付いた血や土を拭う。そして祐樹は華月の肩を掴み揺すりはじめた。
「おにいさんやめて。はーくん、はーくん。たすけて、はーくん。こわい」
「アイツは葉月じゃない。アイツは魔王。本当の葉月は、僕だ」
がっしりと華月の肩を掴み、それを言い聞かせる。
「うそ。つらいときもいっしょにいてくれたのはおにいさんじゃないよ、はーくんだよ」
「辛い時奴が華月の傍にいたのは、君の苦痛な顔を見るため。イジメも、全て奴が仕組んだことだ」
「は、くん、が?」
「アイツは、魔王だ。僕が、葉月だ」
「ちがう、違う!! はーくん以外の言う事は全部嘘だ。葉月以外の言う事は」
葉月に言われた事を思い出して華月はふるふると首を振った。
「華月、思い出してくれよ。腹ん中で一緒だったのはアイツじゃない、僕だ」
母親の腹の中で光を見るのを待ち望んでいた。ずっと二人で、外を見るのを楽しみにして、二人で約束をしていた。「ずっと一緒だよ」。華月が生まれ、続いて葉月が華月の通った道を通る。出たとき、そこにあったのは光ではなかった。葉月は産道の先に死を見た。魔王の不気味な笑顔を見た葉月は、そのままあの世へ追い出された。
両手で強く抱きしめた。
「兄さん」
ずっとそう呼びたかった。葉月の姿をした魔王がいつも「兄貴」だとか「兄さん」だとか「華月」と呼んでいるのが悔しかった。そして、魔王がいつも「はーくん」と呼んでもらえて「葉月」と呼んでもらえる。いつもそれを聞くたびに胸が痛んだ。本来なら、その位置にいるのは自分のはずなのに。
 カヅキが思わず華月のもとに近づく。華月の身体中にある治りかけた傷を見て、カヅキはどれだけ彼が死ねない事に嫌悪を抱いているのかを知った。
「ぼくは」
死ねないこと。それは終わりがないということ。終わりがないものに、始まりなんてあるわけがない。どれだけそれはあやふやなことだろうか。自分が何なのか。本当に存在しているのか。形而上の存在ではなかろうか。観念論内でのみ存在するものなのではないだろうか。不幸そのものなのではないか。
『もうやめてくれ...ッ!!』
カヅキが叫んだ。
『お前は生きてる。血だって出る。お前はここにいるじゃないか。人を好きにだってなるし、感情もあって涙も零す。お前は、人間なんだよ!! あったかいだろ...!! 俺らとは違う、ちゃんと生きてんだよ!』
セエレが、カヅキの言葉を聞いてゆっくりと華月の手を握る。華月は、魔族の冷たさを知った。
『笑ってくれよ…、俺はその笑顔を守るために来たんだから』
不幸なのは華月だけではない。皆苦しんだ分だけ、笑っている。それが人間であろうとなかろうと。
「は、づ、き」
「祐樹!!」
華月が誰に向かってその名を呟いたのか分からなかった。光速レベルでセエレの馬に接近した魔王が、に、と嗤って刃を祐樹に向けた。セエレの馬も僅かの間に地球を一周してしまうほど早かったが、魔王のそれに比べたら歩く人間と走るチーターほどの差がある。セエレが祐樹の名を叫ぶ。それとほぼ同時に華月がセエレの馬の背を蹴りつけ、魔王の剣めがけて飛びついた。馬は暴れて落ちていく。
「シルフィード!!」
華月が叫ぶと風の精が優しく馬を地上で受け止めた。華月は、魔王の足にしがみついている。
「華月、俺の所に来るよなぁ?」
魔王が甘い声で華月に囁く。
「腹の中で一緒にいたからって俺のほうがずっとお前と一緒にいる」
「お前が、母さんを殺したんだね?」
「...だから、どうした」
地上でセエレがその馬に華月の元へ援助にいくように指示する。
「ありがと」
そんな馬に華月は跨り、魔王に攻撃体勢をとる。
「残念だ、本当に」
魔王がわざとらしく溜息をつく。
「出て行け」
華月の言葉に魔王の表情が強張る。
「それは葉月の体だ。出て行け」
魔王の力が解き放たれる。葉月の体が要件を失い、地上に落下し、シルフィードがそれを受け止める。しかしその体は、しばらくすると砂となって崩れてしまった。
「魔王はあんなに大きな剣をもってるのに」
美裕が祐樹のところへ駆けつけた。
「大丈夫さ。信じて待つんだ、僕らは」
祐樹は強く目を瞑り、泣いていた。
「兄さん」
美裕はそんな彼を見て見ぬふりをしながらさり気無く
「大丈夫よ」
と空に呟いた。
 華月の元にサラマンダーが現れた。すまなそうに首を下に向けて叱られた子供のような態度をとっている。
「...ごめん、僕が悪かったよ。何も知らなくて、怒ってごめんね」
サラマンダーはまた首をふるふると横に振った。
「ありがとう。また、僕と」
こくりと強く頭を下げた。それはとても嬉しそうに、にっこりと。
「じゃぁ、皆で頑張ろう」
それに応える様に微笑む彼。それを好ましく思わないのはただ一人、魔王。
「さよなら、魔王」
「なっ...」
まだ戦ってもいないのにそう言われて無性に腹が立った魔王。しかし華月は冷酷に言った。
「勝負が付くということは貴方が消滅するということですから」
「自惚れるな!!」
魔王が吠える。
「...僕は貴方にチャンスを与えたい。一応、ずっと一緒にいたわけですし」
感情を剥き出しにする彼に華月は至って冷静であった。
「それでは、貴方は戦う事を望みますか」
「...くっ」
ここまで来て魔王は逃げられなかった。そのスピードで華月に迫る。それをさらりとかわして、ゆっくりと息を吸った。
「何で!? 僕の馬にあそこまでのスピードが」
地上で見守るセエレが驚嘆した。
『お前の扱いがまだまだなんだろ』
「そっか...。幸せそうだな、あの子」
羨ましそうに呟く。
『教えてもらえよ。華月が戻ってきたら』
「うん」
カヅキがセエレにそっと言う。地上の侯爵たちは息をすることもわすれて、華月と魔王の戦いを見上げていた。
 何度魔王がその剣を振るっても無駄だった。華月に当たっても、それは魔族としてもあり得ないスピードで回復し、仕舞いには華月はその華奢な腕でピンとその剣を掴み取ってしまった。そして華月はその口を静かに動かした。
「     」
寂しそうな瞳で華月は歌を奏でた。魔王は魔王であったとしても、それでもずっと一緒にいたのだ。本当の葉月を殺し、由里奈を殺し、自分を追い詰めた彼でも、17年間一緒にいたことに変わりはない。
「     」
美しい旋律が、聞く者を圧倒した。火の精サラマンダーが、風の精シルフィードが、水の精ウンディーネが、地の精ノームがそれぞれに強く燃え上がる。
「     」
そして、その翼をもった者は現れた。
 その場にいる全ての魔族が沈黙した。美裕と祐樹も息を呑んだ。
「な、なに、あれ」
「し、知らない」
大きな翼に、炎の鞭を持った天使が華月の隣にいる。
「クシエル、か」
ケルベロスが呟く。破壊と処罰を司る七大天使の一人に挙げられる。地獄の貴族と言われ、ほぼ堕天使と言って良いだろう。召還されたその堕天使は迷うことなく魔王にその鞭を振るう。その勝負は圧倒的な形で終了した。
「さようなら」
クシエルによって冥界に引きずり込まれることとなった魔王。すでにその称号は、華月へと移行していた。
「クシエルありがとう」
「退屈だったんだ。まあ退屈で終わったがな」
「うん。ごめんね」
「いや。いい。世界中さがしても俺よりも強い奴なんて...お前くらいしかいないからな」
そう言ってまたすぐにクシエルはどこかへ行ってしまった。
「華月様」
地上に降りた華月を全員で迎えた。
「お騒がせしました」
『お騒がせのレベルじゃねぇ!! 』
吠えるカヅキに華月は目を丸くした。
「あ、カヅキ? どうしたの。鳥になって」
『俺の体が放置プレイだ』
「ぷ」
思わず噴出す華月に少し安堵しつつもしっかりツッコミを入れる。
『笑うな!! 早く封印を解いてくれ』
「分かったよ」
平穏が訪れた。もう誰にも邪魔される事のない、平穏。父親に電話をすると、何も変わった様子を見せなかった。そして祐樹という人間の存在が消え、代わりに祐樹が完全に葉月として塗り替えられていることを知った。
 いろいろ滅茶苦茶になってしまった家を修理する。魔族たちも手伝ってくれた。
「面白いですね、人間の住処、というのも」
ヴァッサーゴが柄にもなく雑巾を持って床を拭いている。
「ごめんね、王子様にそんなことやらせて」
「いえいえ、魔王のお手伝いが出来るなんて光栄ですよ」
「え?」
彼の言葉に華月は固まった。
「魔王?」
魔王は死んだはずである。ヴァッサーゴの言っている言葉の意味が全く分からなかった。
「貴方ですよ、魔王」
平穏はしばらくおあずけのようだ。しばらく、と言えればいいのだが、平穏なんて言葉、自分の辞書にはないのではと疑ってしまう。魔王が死んだ今、新しい魔王はそれを倒した存在と決まっている。華月自身は全くその称号が移ったことに対して自覚していなかった。
「魔王」
掃除どころではなく、真っ白になってしまった彼に美裕が冷たい麦茶を差し出す。
「僕、魔王なんだって」
グスリと鼻をすする華月に、美裕は笑って言う。
「カッコいいんじゃない?」
「...」
「私は素敵だと思うよ。本気で」
「本当?」
「うん。私の友達は魔王です。しかも魔王の称号が継承する戦いをこの目で見ました、なんて!!」
本当に嬉しそうにする美裕に、華月も少し元気を取り戻す。
「にしても、天使も召還できちゃう魔王なんて、前代未聞だよな」
カヅキが嬉しそうに後ろ足で耳元を掻きながら言う。
「そんな、僕」
「もっと誇れる事だよ」
美裕が謙遜する華月に強く言う。
「それで華月さんが魔界を、世界を変えてやればいいじゃない。魔族は悪い人だけじゃないでしょ? 皆良い人なんだよ。その上に立てるって凄いことじゃない」
「そう...ですか?」
俯いていた顔を少し上げる。そして美裕の顔を見て、大切な事を思い出した。
「あ」
そして一気に血の気が引いていく。
「あの、美裕さん。もしかしてゴールデンウィークの時」
「ごめん」
「携帯、見たんですよね? 最低なのは僕なんです。由里奈さんって、僕の母親で...。インセスト...、文化的タブーです」
「うん、今日聞いたの」
「...僕は彼女に親孝行という親不孝をしたんです」
「そんなことないよ。華月さんは最善のことをしたよ」
自信を持てと美裕が華月の手を握る。それはとても温かくて、凄く、泣けた。
「な、何で泣くの!?」
皆こんなにも暖かくて、自分を受け入れてくれる。
「これからも、ずっと、一緒にいてください」
純粋な気持ちで、大好きだから。泣き止まない彼を、美裕はぎゅっと抱きしめた。数日間何も飲まず食わずだった華月の骨ばった体に手を回して、強く強く、もう離さないと。
 自縛霊となって家の入り口に蹲っている由里奈の存在を美裕から知って、彼女とも三回目の再会を果たした。
「華月」
母親の記憶も、女の記憶もすべて思い出した彼女は、華月を見て笑った。
「大きくなったね」
「ありがとう、守ってくれて」
「苦しめちゃったもんね、華月のこと」
ゆっくり華月は首を横に振る。
「私は自縛霊のままでいい。誠一さんにも会いたいし、ずっとここで見ていたいの」
「分かった」
そこに頑丈な鎖で縛り付けられている彼女に、手を伸ばした。ひんやりと冷たい感覚だけが手に残る。
「お母さんは、華月のこと、好きだから」
震えた声が、華月の胸を暖めた。
 夏休みの残りの日々を、華月は魔界で過ごすことになった。任命式とでも言ったところか。美裕と祐樹、いや、葉月に見送られて、彼はカヅキの背中に乗って魔界へと向かう。魔界では沢山の魔族たちが彼を待っていた。新しい王様。
「う、嘘でしょ?」
「誠に申し訳ありませんが、嘘ではございません」
仕事用の大きなデスクに山積みになった書類。前の魔王が溜めに溜めた仕事の山だ。五百年分の仕事に、更に前の前の魔王も、その前の魔王も溜めてきた為に、その仕事の量は半端ではない。
「私達も全霊をかけて協力していきますので」
執事が慌ててフォローをする。しかしこの山を目の前に笑えるわけがない。華月は肩を落として渋々デスクに向かうと、書類に目を通し始めた。
「うわ、これ明らかに日本平安時代だろ」
「そのようでございますね」
最初に手を付けた書類が不味かった。一気に気分は萎える。しかし自分がやらなければ始まらないと、嫌でも書類を目に入れる。
 夏休みが終わっても、書類の山が消えるはずもなく、結局宿題方式に自宅に持ち帰り、家でその書類を片付けていく事になった。
「ゆ...、葉月」
祐樹、と言いかけて葉月と言い直す。まだこの呼び方には慣れない。
「手伝って欲しい、かも」
「ええええ、僕ちゃんとノルマ終わらせた。二百枚ちゃんとやったし」
「億単位あるんだよ!? 二百枚なんて少ないよ!!」
綺麗だった机、その他床の上、更にはベッドの上すらも書類がドンと占領している。
「カヅキ...、何で文字読めないの」
文字が読めずに協力できないカヅキは横でゴロゴロとオモチャとじゃれている。トップクラスのカヅキは、きっと力だけでのし上がったということなのだろう。
「俺が生まれたのはちょうど魔界が戦乱期だったからな。周りに教えてくれる奴なんていなかったんだよ。生き残るためにただ戦ってたら、気付いたらトップクラスの仲間入り」
揺れていた尻尾が止まる。目を細め、過去を思い出しているのだろうか。
「大変、だったんだね」
「まあそれなりに。でも、生きるってそういうことだから」
な、と同意を求めるカヅキに、二人とも返事をしなかった。
 侯爵や王子も華月の仕事量を見て圧倒され、手伝ってくれた。執事もメイドたちも、少しずつだがコマを進めてくれている。そのお陰で、その何千年分の仕事は、仕事開始から二ヶ月目に入る前に終えることができた。終わったときの達成感はとてつもなく、魔王の城を使って盛大にパーティーを開き、二次会は華月の家で行ったほどだ。
「どんだけだよ、華月」
先ほどから鼻水を垂らしながらえぐえぐと感泣している。
「これで学業に専念できる...」
「あ、おまっ、授業中もやってたの!?」
「だ、だって終わらないから...。でも余談の時だけだけど」
余談中に書類を見て、そのまま気付いたら余談はとっくに終わっていて、というパターンである。
「そう言えばさ、悪魔のトリルはどうなったの?」
「と、トリッ......ぎゃぁぁぁぁッ!!」
最近は部活も真面目に出ていなかったから、すっかり忘れていた。コンクールまであと一ヶ月と僅かだ。
 滝沢に部活を無断欠席していたことを謝りに行った。
「え? いや、僕はてっきり個人練習に勤しんでるのかと思った」
「...すみません。普通に忘れてました」
「君らしくないね。何か他に忙しかったの?」
「え、あ、はい...」
俯いた華月の肩をぽんぽんと滝沢が叩く。
「こっちもいろいろあってね。先月急にピアノが決定してないことに気付いてね。そんなミス今までなかったのに。っていうかピアノで始まる曲なのになんでいなかったんだろう。今までどうしてたか全然思い出せなくて」
あはは、と笑う滝沢に華月は物凄い罪悪感に駆られた。
「で、決まりましたか?」
おずおずと聞いてみる。
「僕だよ」
「うわっ、ゆ、葉月!!」
唐突に楽譜を持って現れた葉月に華月は驚愕した。
「葉月、ぴ、ピアノ、ひ、弾けたの?」
華月の脳内は只今錯乱中であった。そんな彼ににっこりと笑って自信満々にそれを肯定する。そしてそれを証明するかのようにピアノに向かった。そして視線を落とし、鍵盤にゆっくりと指を落とす。ショパンの「木枯らしのエチュード」だ。
「...というわけで、僕がピアノをすることになりました」
「他にも立候補者はいたんだけどね、葉月くんが唐突に来てさ。ピアノ弾き始めるものだから皆感激だよ」
へへん、と鼻を高くしている葉月をまだ華月は信じ切れない。
「どんな術使ったんだよ」
耳元でこっそり問う。その表情は色々な意味で罪悪感に満ちている。
「違う、僕の実力! 練習してたんだよ。魔王が弾いてるの見てムカついたから」
小さい頃、華月がバイオリンを始め、魔王がピアノを始めた。それを見て、葉月も負けじとピアノを練習し始めたのだ。それを聞いて華月は思わず噴出す。
「何で笑うの」
「想像して...、可愛いなって思っただけだよ」
「今も可愛いでしょ」
「え?」
「うっわ、最低」
真顔で疑問する華月に、葉月はそこは合わせるところでしょ、とブーイングをする。
「和泉兄弟、何バカップルしてるの?」
ニコニコと二人の間に入ってくる滝沢。
「先輩それ死語でしょ」
ぶふ、と不行儀な笑みを浮かべる葉月。
「で、話を元に戻すよ。悪魔のトリル、今ここで少し弾いて、それからどうするか決めよう」
華月は慌ててバイオリンを構えた。一応昨晩は練習してきた。一応五月から七月までは熱心に練習を続けていたため、思い出すのに然程時間は掛からなかった。でもやはり納得できたものではない。ただある程度の速度で音が付いてくるレベルだ。
「笑わないで下さいね」
苦笑してから、口を引き締める。弓を動かした。
 悪魔のトリル。天から落とされた御遣いが、神への反逆のために作った曲。この難しい曲を美しく奏でられた時、きっと自分は前に進めるだろうと思って、この曲を弾く事を決意した。魔王となって、魔族の頂点に立った自分。それを本当にコントロールしたいから。自分を支えてくれた皆に、感謝の気持ちを込めて。
 滝沢は驚いた。確かにまだ荒削りな所もいくつかあるが、あと一ヶ月以上もある。華月なら何とかなるという確信が部長にはあった。
「笑っちゃいますよね」
謙虚に腰を丸め、頭を掻く華月に、滝沢は口を開く。
「間に合うよ...。全然! 僕は華月くんの悪魔のトリル凄く好きだよ」
「へ?」
「華月くんの目標が高すぎるんだよ。僕が低いのかもしれないけど...、凄い良かった」
「うん、まあ確かに昨晩よりは上手く弾けたけど...」
「応援してるよ。この調子で頑張って」
「...ぁ、は、はい!」
キョトンとしたが、滝沢のそれが自分の演奏を肯定するものだと理解すると、慌てて返事をした。
「そうだ、ちゃんと言いなよ、美裕に。ちゃんと見てくださいって」
音楽室を後にする二人。葉月のそんな催促を華月は少し照れながら了承した。
 三人で食べる昼食。屋上で心地よい秋の風に当たりながら、高い空を背景に丸くなってコンクリートに直接座って談笑している。
「葉月を敵に回したくないね」
先ほどのことと言い、全てに計画的すぎる彼に華月も驚くばかりだ。
「ピアノ凄かったんだよ」
華月が褒めると葉月は誇らしそうに胸を張る。
「で、悪魔のトリルの方はどうだったの?」
美裕が箸を咥えながら要点を聞いてくる。華月がもごもごとしているうちに、葉月が代わりに答える。
「良いってさ! かなり好印象」
「あ、うん...。えっと美裕さん、コンクール絶対見てくださいね」
「当然よ! 耳の穴かっぽじって行くわよ」
華月の表情も綻ぶ。乾燥した空気の中で枯葉の匂いが鼻に付いた。
 放課後、演劇部の女子は恋バナに花を咲かせていた。葉月は演劇部員だがコンクールの準備があり、オーケストラ部で活動している。
「曜子、司くんと付き合いだしたんでしょ?」
「嘘ぉ、私狙ってたのに」
「レベルの高い男ってやっぱりすぐ埋まるよね」
はぁ、と溜息をつく女子。しかしその表情はすぐに晴れる。
「いるじゃん! 二人、凄いのが」
少し離れていたところで過去の台本を読み荒らしていた美裕の肩がピクンと震えた。
「和泉兄弟、和泉兄弟!!」
やはり、と美裕は肩を落とす。台本を本棚に戻したところで振り返って、女子達の視線が自分に向いていることに気付く。
「二人とはどのようなお関係で?」
恋バナというものはどうも低レベルで付き合いたくない美裕だったが、悲しくも引きずり込まれてしまった。
「私絶対葉月派。華月くんって何か女々しい感じするし」
「えぇ、そこがいいんじゃない。守ってあげたいっていうか」
勝手な得点付け大会が始まった。
「美裕はどっちかと付き合ってんの?」
「い、いや」
「うそ、マジで? じゃあ今フリー?」
一気に目を輝かせる女子達に、美裕は内心「獣だ」と思いながら、フリー説を肯定する。
「そういえば二人とも今まで誰かと付き合ってたとか、そういうのなくね?」
「何で? 誰か告った人いないの? 千尋は?」
「告ってないってよ?」
誰も手を挙げない。美裕はホッと胸を撫で下ろす。
「私華月くんに告ろうかな。人良さそうだし、OKしてくれそうじゃない?」
安堵したのも束の間、学年でも美人だと有名な悠が申告した。「付き合っている」と嘘をつけばよかったのだろうか。しかしそれは華月に悪い気がして美裕には言う事ができなかった。
「今日オーケストラ部あるでしょ? 部活終わったら言う」
「頑張れ!」
「じゃあ私葉月くんに告ろうかな」
葉月ならきっと一発で断るに決まっているから心配はしていないが、断れない性の華月がどうするのかが怖かった。でもそれを阻止する最善策が見つからず、結局部活が終わってしまった。
 早速声を掛けられている。華月は少し困惑したような顔で、悠についていく。唐突に声を掛けられ、何かと思えば学校の近くの公園のベンチに座っている。
「えっと、あの。用件っていうのは?」
「あの、えっと、好き...で」
華月が一瞬茶道や華道を思い浮かべたのは秘密である。
「付き合ってください」
「あ、でもっ、僕」
否定的な華月に、悠は肩を落とした。
「だって、美裕とも付き合ってないんでしょ? 彼女いないならいいじゃないっ!」
悠は今まで告白して断られたことがないのであろう。華月のその態度をプライドが許さなかった。
「その通り、僕は美裕さんと付き合ってないし、付き合いたいとも思ってません。でも...、ただずっと友達のまま、一緒にいられたいいと思ってます。だって...僕に人を好きになる権利なんてないんですから...。だから僕、貴女ともお付き合いできません。」
悠はその言葉の意味が理解できなかった。そう、彼女は幸福なただの人間だから。
「だって貴女に、僕の全てを受け入れられるわけがないんですから」
にっこりと笑った。悠にはそれが嘲笑のように思えて、声を荒げた。
「そんなことない」
何も分かっていない、何も知らない女の何も考えていない、考えきれていない返答に、華月は少し溜息をついた。
「わかりました。お見せしましょう」
華月はゆっくり手を自分の目に当てた。手を退けると、その目は美しくも怪しく、琥珀のように金色に光っていた。
「な、な...」
一歩退く彼女に、華月はそのまま笑って言った。
「ね? 貴女には無理でしょ」
意味が分からなくなってしゃがみ込んでしまった彼女の頭に、華月はそっと手を置いた。
「だから、このことは忘れてください」
フッと彼女の体が崩れる。それを華月は背負って、公園を出た。そこには心配そうに立っている美裕と、告白を冷酷に断ってきた葉月がいた。
「見てたんですか?」
「い、いや...、なんて言うか...心配で」
「僕は美裕の観察。この人凄い喜怒哀楽してて面白くて。で、その人どうするの? 落し物ってことで交番に届けたら笑える」
「先生まだいるだろうし、学校に連れて行ってあげよう」
葉月のジョークをさらっと流して、保健医のところに連れて行く。悠の中から、華月に関する記憶を消したから、もう同じ事はないであろう。目覚めた時に、記憶の中に華月はいない。
「でも、あんな断り方で良かったの?」
「そうでもしないと僕には断れないから...。最後にちゃんと記憶も書き換えましたし、本人を一番傷つけない方法じゃないかなって」
華月を気にする美裕に、華月はどことなく寂しげに笑った。
 三人で帰る。まっすぐで平坦な道を、夕日が紅く染めている。昔はこれが、血にしか見えなかった。紅いものは全て呪われた血のように見えた。でも今はそれがちゃんと美しいものだとわかる。暖かいものだと分かる。大好きな人と歩くその道がどこまでも続けばいいと思う。










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