朝。穏やかな春の日。桜が花びらの舞踏会の末に絨毯を織り上げ、黒いアスファルトで舗装された道を桃色に更に舗装している。頬を撫でる甘い風が心地よい。
 そんな麗らかな空気を乱す二人の学生がいた。
「ヤバい、遅刻だ華月!」
「待って待って、いやホント...忘れ物ないよな...」
「お前俺より一時間も早く起きてたくせに」
「忘れ物ないよなー!!」
「何時間忘れ物の確認してるんだよ!」
小心者の極地である華月は朝五時に起床、朝風呂にまで入り身支度を完璧にした上、持ち物を鞄に詰め込み、更に忘れ物の確認にまで入るが、忘れ物というものは完全に脳内から欠落しているがために忘れるのであって、何を忘れているのか全く分からない。それが怖いあまりに手帳等と睨めっこしながら確認し、更に確認の確認、更にその確認の確認の確認までしている。
「来い! 忘れ物なんてねぇよ!」
葉月が強制的に華月を家からかどわかす。
「ああ、もう。忘れ物無いよね?」
「うざい、小心者! ココに書いてあるのだけで良いんだよ! 書類と写真、上履きと筆記用具」
授業はまだないので教科書等もいらない。必要なものはそれだけなのにもかかわらず心配している華月に葉月は呆れた溜息をつく。高校二年生となってはじめての通学路を二人は騒々しく歩いていく。新学期でクラス替え発表もあるために大抵の生徒は早く登校しておりほとんどいなかった。
 途中まで順調だったものの、いつもより遅い時間のために電車がラッシュに入り、学校目前にして踏切が開かずの踏み切りとなってしまっていた。
「裏道行くぞ」
「へ!? 嘘ー、あそこ通りたくない」
「誰のせいだ誰の」
「...はいはい」
溜息をつき、華月は渋々葉月の背中を追った。
 欝蒼とした森。春なのにも関わらず湿った落ち葉の匂いが残っている。森閑としたその森の中に二人だけの声が伝播し、そして吸収されていく。
「ええええええ! 明らかに前より酷くなってない?」
「黙って登る! ここを突っ切ればすぐ学校の裏だ。ざっと見積もって朝礼開始五分前には到着するだろ。」
五分の短縮だと葉月は自慢げに笑う。華月はトホホと山道に入っていく。
「のんびりハイキングじゃねえんだから走るんだよ」
「徒歩十分じゃないの!?」
「んなわけねえだろ、完走して十分だ」
「まーじーでー」
「マジだ。話してると遅刻だ遅刻。しょっぱなから兄貴の所為で遅刻」
「わかりました。もう」
足場さえ覚束ない、道とは言えないような所をを二人は走っていく。
 何とか間一髪で教室に駆け込んだ。
「うわ、和泉兄弟、クサっ! 何してきたの。新学期なのに。葉月はまあ臭いのも分かるけど華月が臭いってどういうこと?」
幼馴染の祐樹が二人にまず絡んできた。
「そこの山越えてきた」
「...なんともまあ...お疲れ様」
「...って祐。今お前なんか俺の悪口言ったよな?」
「え? 嘘ぉ、悪口なんて言ってないでしょ」
「俺が臭いのが何で理解可能なんだよ」
「汗ばんでそう。...あ、いや、熱血、青春魂が似合いそうって!」
一言多い人間の典型的実例。
「...凄かったんだから。虫とかいるし、葉っぱ邪魔だし」
葉月の怒りを逸らせるように華月が懸命に話題を変える。
「ちょっと葉月、そんな物騒なところに華月を連れて行かないでよ」
「遅刻するよりは全然良かったろ! っていうかお前キモイんだよ」
「友達の安全を思って何が悪いのさ」
華月の努力虚しく更に空気が気まずくなった。
「...にしてもさ! また皆同じクラスでよかったよね!」
「そうだね」
「おうよ」
ちょうどチャイムが鳴り、三人は各自席に戻った。
 新しく同じクラスになった人たちと話していたら、あっという間に始業式も終わり、下校時刻となる。
「あ、美裕さん。同じクラスで良かったです」
「そうだね、去年は離れちゃったもんね」
華月が、はにかみながら美裕に今年度初めての話題を持ちかける。人気者の美裕に声をかけるチャンスは少なく、一日かけてこのときを華月は楽しみにしていた。
「山越えてきたんだって?」
「時間ギリギリになっちゃって」
「休みボケでもしたの? 華月さんにしては珍しい。それとも葉月が寝坊か」
「いや、僕が忘れ物チェックしすぎて」
「忘れ物チェック? ...ぶ」
噴出す美裕に、華月もつい自分の事なのに笑ってしまう。彼女の笑顔が、華月にとっては何よりも嬉しかった。
「帰ろうか、華月さん」
華月に向かって微笑む美裕に、華月も莞然と笑った。
「はい」
「おい、待て華月! 俺らも」
「はぁ? 汗臭い葉月はいらないし。私は華月さんと帰ろうと思ったの!」
「何で同じ顔なのにこんなに待遇が違うんだよ」
「性格の問題でしょ」
「はっ!? 祐! お前黙れ!!」
逃げる祐樹を追いかける葉月。華月は美裕の斜め後ろを歩きながら、そんな光景に笑っていた。ただ幸せだったから。
 バイオリンケースを持ち、かつ学校の鞄を肩から下げ、そしてもう片方の手には夕食の材料の入った袋を持っている。まるで今日田舎から上京してきたような格好で、高級住宅街を歩く。
「重たい...」
家の屋根はもう見えているのに、なかなか辿り着かない。華月はため息をついてまた荷物を持ち直す。
「ただいま」
なんとか家に到着し、玄関の絨毯の上に荷物をどさりと置く。ヘトヘトな彼に、葉月は無意味な優越感に浸っていた。
「お帰り。ご苦労さん」
「少しくらい手伝ってくれればいいのに」
「先週は俺がやったろ」
週代わりの食事当番で、今週は華月の番だった。
「でも先週は部活なかったじゃない」
「運だよ、運。ラッキーなの」
「しかも葉月はいつもインスタント」
「得体も知れないもの食わせていいのかよ」
葉月は料理が破壊的なまでに苦手である。そもそもやる気の問題かもしれないが、とにかく灰汁の処理さえ怠る大雑把かつ不器用な性格であったから彼の週はいつもインスタントのラーメン、カレー、惣菜、あとは野菜をぶった切ったサラダだ。
「うう...」
そもそも当番制にしたのは華月で、いつも自分ばかり料理をするのは嫌だということになったのだ。
「僕料理するから葉月買ってきてよ」
「重いじゃん」
「後片付けも全部僕がする。更に洗濯も僕がやるから! どうだ」
「...了解。交渉成立な」
母親も父親も家にはいなかった。母親は、華月と葉月が幼い頃他界した。父親は海外で働くエリートだった。お金には一切困らない生活。しかしお金が溢れるだけ、そこにはそれと同じ量の寂しさがあった。華月はそんな寂しさを「笑顔」で紛らわせた。葉月はそんな寂しさを「無愛想」で紛らわせ、敢えて周りに人を寄せ付けないことで寂しさに無理矢理慣らせた。
 平凡と言うのは誰が定めたのであろう。いつもと変わらない日常を平凡と言うのなら平凡は昨日と同じような日のことを言うのであって、そんな昨日を過ごしたのは自分ひとりしかいないわけで、一人ひとり平凡に対する定義は異なるのである。そのバラバラの平凡の中で、葉月も華月も満足した平凡を満喫していた。双子で、いつも一緒にいる彼らでさえそんな「昨日」は異なるのである。
そして、華月は知っていた。平凡は長く続かないという事を。
「やべぇ、遅刻だ!」
 朝、階段を乱暴に下りてくる葉月に華月は笑って朝食のトーストを手渡した。
「おう、サンキュ!」
「ほら、行こう」
「お前朝食食ったのか」
「うん、もう食べた」
玄関の扉を閉める際、丁寧に誰もいない家に向かって華月はいってきますと声を送る。部活も彼らは揃ってオーケストラ部であった。しかし楽器は異なり、葉月はピアノ、華月はバイオリンを主としている。ピアノは楽譜以外に特に持ち物がないので、バイオリンを持つ華月としては少し葉月が羨ましかったりする。
「待って、葉月」
「ん」
時折ケースを背負いなおす華月に、葉月は寛大に足を止める。言葉遣いも乱暴で、周りを寄せ付けない彼が唯一心を許すのが華月だった。母親のお腹の中からいつも一緒にいた、分身のような存在だったから。
 桜の仄かな香りが漂う四月の穏やかな風。園芸部が植えた花々がそんな香りを更に臨場感溢れるものとしている。今年は例年より少し暖かく、音楽棟の周りは春でいっぱいだった。
「綺麗だね」
「そんなこと言ってる場合か。急ぐぞ」
葉月に急かされて、華月も足を速める。部室にはまだ数人しか着いてはいなかった。
「おはようございます、部長」
「今日も精がでるね」
「個室を借りたくて」
「他の部員にも見習ってほしいよ」
オーケストラ部部長の滝沢は苦笑しつつ、個室の貸し出し表を渡す。
「ああ、今度の華月君のソロの件だけどね、悪魔のトリルなんてどうだい?」
今年この学校の創立百周年を記念して行われるコンサートでの華月のバイオリンのソロ演奏の曲目を部長は是非とも「悪魔のトリルに」と言ってきた。タルティーニ作曲のその曲は、連続したトリルがとても難しい曲で、「悪魔の力を持ってしても」難しいと言われる曲だ。何でも作曲者の夢の中で悪魔が弾いていたとされる曲で、起きてすぐに譜面に写したといわれている。そんな悪魔の作り出した、最も難しく、最も美しい曲を華月は楽譜を見ながら考える。
「僕これやります」
華月はこれを、神からの挑戦だと思った。










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