お昼休み、既に華月の周りの人たちには悪魔のトリルを弾くということが伝わっていた。クラシックに興味のない人たちにとっては、悪魔のトリルという曲は聴いたこともない曲だ。題名に「悪魔」とあるように、皆あまりいい印象は持っていないようだ。
「悪魔のトリルなんて華月には似合わないよ」
「悪魔のドリル?」
「悪魔のトリルです、美裕さん。...凄い綺麗な曲なんだよ?」
「天使のトリルとかないの?」
「そんなのないよ」
美裕と祐樹とで話していると、葉月が不機嫌そうな顔でやってきた。
「あんなにあっさり引き受けちゃって、この莫迦」
「だって...好きだし。いい曲だよ」
「悪魔のトリル、何がいけないのよ?」
「難しいんだよ。最後のほうとかは、こう...トリルトリルの連続で。言うならば、微分方程式並み?」
「へぇ。華月さんならできるよ」
葉月が美裕に説明するも、あまり美裕はその難しさというものを理解しきれておらず、ぽんぽんと華月の背中を叩いた。華月は静かに、また笑った。
 屋上で風に当たっていた。華月はフェンスに身を預けながら一人真剣な顔をしていた。楽譜を目で追いながら、ゆっくりと曲のイメージを掴んでいく。
「この曲、引き受けてよかったよね?」
ぼそりと、問う。
『俺に彼是言う権利はねぇよ』
「カヅキ」が答えた。
「皆反対してるし」
『それは難しいからお前にできるのか、ってことだろ』
「大丈夫だよ」
『ならいいんじゃねぇの』
「そっか」
また笑顔をつくる華月に、カヅキは無口になった。沈黙が続き、しばらくして風のような声でカヅキが呟いた。
『誰かが反対したって、お前がやりたいんなら貫け』
「そうだね、ありがとう」
何かのカウントダウンがはじまった。
 その日の放課後から練習に打ち込み始める華月。コンクールまで七ヶ月。
 ゴールデンなウィークが始まった。高三になるとやはり受験が絡んでくるので忙しくなるだろうから、今年が最後のゴールデンウィークだ。このゴールデンウィークを輝かなくて青春が語れようか。祐樹は張り切っていた。
「今年のゴールデンウィークだけどさ、どこか二人で行こうよ」
一人鏡に向かって練習。ナチュラルさを求めて演劇部の根性を見せる。が、なかなか上手くきまらない。
「ゴールデンウィーク暇なんだ...」
暇だから誘った、と思われたくはないので没。
「折角のゴールデンウィークなんだしさっ、どこかふたり...」
「何やってるの、祐」
「あ」
場所は男子トイレである。手洗い場の鏡に向かって怪しくも一人で似たような台詞を繰り返す祐樹を、偶然にも華月はみつけた。
「ゴールデンウィークに誰かを誘うの?」
「あ...いや、その...、華月を」
「僕?」
当の本人に聞かれてしまって、何のために練習をしたのか分からない。アンナチュラルであること極まりない。
「華月の家にでも久しぶりにいきたいなー...」
「うちに来たいの?」
「そうそう」
「多分大丈夫だよ。父さんにはゴールデンウィーク関係ないし」
海外にはそんな輝いているウィークはない。黄金の国ジパングならではのウィークだ。
「皆で過ごしたほうが楽しいよね!」
「え?」
 結局、教室で大々的に華月が召集をかけてしまったおかげで、幼馴染だけのスペシャルデーの予定は丸潰れになった。メンバーはお決まりの祐樹と美裕に加えて、クラスの女子や男子で、選択授業のような少人数になっただけで、教室の面々にあまり変わりなかった。
「全然ゴールデンじゃない」
項垂れる祐樹。折角の黄金週間一日目がこれなのだ。
「元気出しなさいよ。折角の華月さんの家なんだから! 広いんだね」
「美裕来るの初めてだっけ」
意味不明な優越感に浸る祐樹は、ニヤニヤと笑いながら美裕につっかかる。
「そうよ、なんか文句あるの」
人生ゲームを始め、ルーレットを回しながら祐樹と美裕は話す。
「にしても奇麗な部屋ね。男の子の部屋ってもっと汚いイメージが」
「華月だから。葉月の部屋は汚いよ」
「お前黙れ」
「ああ」
二人の会話に葉月が乱入。
「美裕も何納得してんだよ」
「葉月落ち着いて、お菓子持ってくるから、ね?」
そんな葉月を華月が宥める。ゆっくりと立ち上がり、華月はお菓子を取りにキッチンへ行く。それに続いてボランティアで女子たちが手伝いに向かう。
 途中退室者がほとんどで、結局最後まで残っていたのは美裕だった。祐樹も先程連絡が入り、ぶつぶつと文句を言いながら帰っていった。
「外もう暗いですよ」
カーテンを開けて外を眺めながら華月は心配そうに言った。
「うん、ごめんね? 迷惑かな」
「いえ、そんなことないです」
「うちさ、親帰ってくるの遅いから」
表情に少し影を落とした美裕に、華月は慌てて声のトーンを上げる。
「じゃあ夕食うちで食べていきますか?」
「え、いいの?」
「勿論ですよ」
「じゃあ俺買ってくる。何要る?」
床に胡坐をかいていた葉月がゆっくりと立ち上がり、華月に材料を問うた。
「んっと、待って。書き留めるから」
引き出しからメモを取り出して材料を書いていく。
「あとは家にあるから大丈夫。お願いね」
にっこりと笑う華月に葉月は後悔した。あの時夕食の仕度を完全交換制にしたままにしておけばよかった、と。
「じゃあ美裕さん、ここで待っててください。出来上がったら呼びますから、本でも読んでいてください」
「ありがとね」
部屋を出て行く華月を見送ると、美裕は大胆にも華月のベッドにゴロンと横になった。白いふかふかの布団が気持ちが良い。
「ホント殺風景な部屋だな」
大抵はこういう成長期の男の子の部屋というのにはベッドの下に怪しい本が隠されていたり、変なゲームがあったりするのが基本だが、彼の部屋には全くそういった類がなかったのだ。
「まあ安心はしたけどね」
ぼそぼそと何を呟いているのやら、彼女はゴロゴロとベッドの上で転がってみる。気持ちが良い。彼女はそのまま夢の世界へ落ちていった。
 ゴテンとベッドから転落した。普段の美裕からは想像もできない無様な墜落のしかたである。
「いたたっ」
ベッドの下に、何かあるのが見えた。
「何コレ。ケータイ?」
確か華月は携帯電話を持っていなかったはずである。いつも持っていないからとパソコンでのテンポの遅いメールのみで連絡を取っていた。美裕は一割の不安と九割の好奇心とで、その携帯電話の中身を見てみることにした。
「な...何これ...」
一割の不安が、突如美裕の脳内で膨れ上がった。電話帳に登録されていたのは一人だけ。しかも女性の名前だった。メールボックスも全てがその人とのメールだった。その人物の名前は小早川由里奈。生年月日から計算すると三十二歳ということになる。しかもメールの内容を辿ると、明らかに二人は肉体関係をもっている。
「年上...趣味...っていうか...え??」
状況が掴めない。これは本当に彼女なのか。向こうは明らかに華月を好いているのはメール内容で分かる。しかし華月は、少し身を引いた形でメールを送っている。遊び、なのだろうか。あの純粋な笑顔をいつも振りまいている彼がこんな一面を持っていたなんて。美裕は静かにその携帯電話をまた同じようにベッドの下に隠した。
「あぁぁ、疲れた」
「お、おかえり。葉月君」
彼はこのことを知らないのだろうか。美裕は目を泳がせた。
「どうしたんだよ? 何か変」
「そんなことないよ。休み中なんか宿題あったっけって」
「倫理だろ。人間とはなにかって論文の提出」
「あ、そうね。そうそう。ありがと」
適当に話題を振って適当に返事をする。まだ自分の知らない華月がいるのではないだろうか。美裕は不安に駆られた。
「出来たよ」
 しばらくして華月が嬉しそうに二人を呼びに来た。美裕のために腕によりをかけたのだろう。レストランに並んでいそうなふわふわのオムライスが綺麗に置かれている。
「急いで作ったんで...」
それでも自信作なのだろう。華月は本当にキラキラした笑顔を見せている。美裕の席を引いて、彼女をエスコートする。美裕もそれに答えるが、表情が浮かない。
「どうしたんですか、美裕さん」
「あ、ああ、なんでもないの」
「オムライス嫌いでしたか?」
「大好きだよ」
美裕が作った笑顔は、華月を一層悩ませた。
「ごめんなさい、僕」
何故美裕がそんな表情をしているのか華月には分からなかった。それでも自分が何かいけないのかもしれないと思ったから、彼は泣きそうになりながら謝った。
「ち、違うの。華月さん」
「違う?」
「華月さんが悪いんじゃないから」
「じゃあどうして?」
人を悲しませたりすることが、一番の華月の苦痛であった。何故なら彼は過去に、一番大切な人を悲しませ、かつ「死」に追いやってしまったからである。もう同じ過ちを繰り返さないと誓ったのだ。
「華月さん、ちょっといい?」
「え?」
美裕に手を引かれて、華月はキッチンの奥に来た。
「どうしたんですか、美裕さん」
突然その引いてきた手をぐいっとひっぱり、自分に寄せると、無理矢理華月の唇に自らの唇を重ねようとした。
「やめっ...」
華月は驚いて、咄嗟に美裕を拒んで突き放した。
「あ...」
美裕は酷くショックな顔をしている。それを見て、華月も、しまったと思った。
「ご、ごめん、なさい」
「ごめん、華月さん」
美裕の頬を、何かが伝った。
「あっ、み、美裕さ...」
美裕は走って華月の家を飛び出た。それを見て葉月が駆け寄ってくる。
「ど、どうしたんだよ、華月。美裕は?」
「う...うん...ちょっと...」
休みが明けたらすぐに謝ろうと思って、華月は美裕に対する不安を胸の中にしまった。葉月に心配をかけるわけにはいかない。兄なんだからしっかりしなくてはいけない。彼は微笑んで、いつもと変わらない二人だけの夕食をとる。美裕のために作ったオムライスを華月は綺麗にラップをかけて、冷蔵庫にしまった。
 華月にとって、数学の宿題よりも英語の宿題よりも、倫理の宿題が一番過酷であった。「人間とは何か」という論文をレポート用紙二枚以上に渡って解き明かさなくてはならない。それが彼にとって難題であったのは、彼が普通とは違う、要するに人間とは別の存在であったからである。
「祐樹。倫理の宿題の論文。定義付けってどうした?」
電話でそっと相談してみる。
「...名言とかから抜粋しちゃったけど」
戸惑いながらも答えた祐樹に感謝をしながら、本を漁って名言を探す。「人間こそは笑い、また泣くところの唯一の動物である」「人間は生きることの意味を求める精神的存在である」「言葉・シンボルを操る動物」。どれも華月は納得が出来なかった。自分だって笑うし泣きもする。自分だって生きることの意味を求める。自分だって言葉を操る。でも、人間ではない。困惑し苦悩した。悲しくて虚しくなった。では、自分は何?
 ゴールデン明け、華月は恐怖でいっぱいだった。昨晩も全く眠れなかった。美裕は昨日の出来事を許してくれるだろうか。そもそも何故美裕は、あんな行動をとったのだろうか。華月は朝一番で言った方がいいと考えて、美裕の元へと足を運ぶ。
「み、美裕さん」
声が震えていたかもしれない。彼は時折唇を噛み締めながら美裕に声を掛けた。
「き、きのうは」
声をかけようとしたとき、唐突に美裕に客がきた。
「美裕〜ッ!! この前貸してたCD持ってきた!? 」
「あ、うん!!」
「あ、み、みゆっ...」
隣のクラスからの邪魔が入って、彼は言いたいことを言えなかった。本当のこと。何が本当なのかも定かではないのに。彼の視界が涙で滲んだ。
「僕どうすればいいんだよ」
好きな人を喪いたくない。過去に「大事なものはちゃんと握り締めておく」と決めたのに。大切な物の数は少なくても、それでもちゃんと全てを確かにしていたかったから。それなのに。また喪うの?
 授業中、過去の自分が現れては、「また喪うのか」「お前の人生は所詮不幸でしかない」「そして周りも不幸にするのだ」と華月を追い込んだ。カヅキがそんな華月にストップをかけようとした。それでも華月はとまらなかった。
「痛いッ」
突然胸を激しい痛みが襲った。胸から心臓が抉り取られるような激痛。突然椅子を後ろへ倒して胸を押さえながら立ち上がった彼に教室は騒然となった。
『華月』
「あっ...!! ぐっ...ぁう...げほっ」
咳と共に、血が飛び散った。大量の血が勢いよく口から流れ出る。
「華月!?」
教室からは悲鳴が上がった。両手を血に染め、広げられていたノートの文字が全て解読不能なまでに血を被っている。焦って葉月が華月の元に駆け寄った。
「だ、大丈夫かおまっ...」
肩に触れようとして拒まれた。静電気のようなバリアが華月を覆っていたのだ。もう誰も喪いたくないのなら、もともと大切な人なんて作らなければいいのだ。極限の彼が無意識に導き出した結論だった。
 教師はあまりの惨事に動けないでいた。失神する生徒まで出てきて、別の意味での沈黙が訪れた。そんな状況で華月は、最後の理性を振り絞り、血まみれになりながらその教室から逃げ出した。引き止める葉月の手を強引に振り解き、廊下に血痕を残しながら、なんとか校舎裏に辿り着いた。華月は既に致死量を大きく上回る出血をしていた。にも関わらず、それにとどめをかけるように背中が急に裂けた。そしてそこから翼を持つ暗黒の獣、悪魔が出てきたのだ。その翼は華月の血を浴びて、真っ赤に染まっていた。その悪魔こそがいつも影で華月を支えていたカヅキだった。彼は獣という仮の姿で、華月の心に住み着いていた。
「華月!!」
カヅキは華月の体内から吐き出されると、自らの治癒能力を使って華月の傷を塞ぎ始めた。いつも華月の心に住み着いていたカヅキだったが、今回の美裕の件で今まで溜まりに溜まっていた苦しみや悲しみによって華月の心が壊れたのだ。華月がもう誰とも関わりたくないとカヅキさえもを拒んだ結果だった。
「華月、華月」
傷はなんとか塞いだものの、彼の血は落ちなかった。カヅキは血まみれの華月を抱いて、ただただ途方に暮れた。もしかしたら自分が華月の中に存在するから、そのせいで華月がここまで被害を被ってしまったのかもしれないと自己嫌悪に陥った。
「大丈夫、だ...よ」
華月が消え入りそうな声でカヅキに言った。
「大丈夫。ごめんね、カヅキ、血まみれだ」
何故自らの心配を少しもしないのだろうとカヅキの目は涙で潤んだ。
「もし僕が今ので死んでたら」
華月は話すことを止めなかった。
「もう喋んな」
「死んでたら、誰が僕のために泣いてくれるだろう」
「...華月?」
「美裕さんは葬式、来てくれなかっただろうね」
苦笑する華月。そんな彼の表情からカヅキは彼の辛さを知った。華月の目に光が無いのは、血の気が無いから? それとも――。
「俺が泣くから」
血でべっとりとした華月を、血に塗れたカヅキが抱きしめる。
「悪魔だから涙は出ないけど、泣くから」
それは不器用な言葉であったが、彼の本心であった。華月はそんなカヅキに力なく微笑んでふらふらと立ち上がった。
「おまえ、大丈夫なのか?」
裂けた背中は既に完治していた。
「うん。平気」
華月はまたいつもの笑顔で血まみれの自分の制服をみて「落ちるかな」と呟く。そして心配そうにまだ眉を顰めるカヅキに、照れながら彼は言った。
「ごめんね? 僕、いつもカヅキに助けられてばかりだ」
出逢ったときすら彼はカヅキに命を助けられていた。
「僕、もっと強くならないと...ね」
笑う彼にカヅキは一層眉間にしわを寄せる。
「違うんだ、華月」
「え?」
それは華月が嫌いな言葉だったからカヅキは言うのに深く躊躇した。
「華月、お前が、強すぎるんだ」
「え?」
沈黙が二人の間を覆った。風も止んで、しばらく無音の世界となった。
「お前は、強すぎるんだよ。」
カヅキは辛そうに言葉を紡いだ。
「少しは、俺も頼ってくれ。俺はお前を守るために来たんだから」
本音をぶちまけた。
 華月はカヅキと出逢ったあの時代を思い出すのが嫌だった。暗黒時代、と言うべきほどの闇が彼を覆っていた時代。小学三年生の時から三年間続いたイジメは常人には耐えられないほどの過酷なもので、それを華月が耐えられたという事実は怪奇現象と言っても過言ではなかった。

葉月と華月は昔から仲が良かったわけで、お互いに影のようにいつも一緒にいた。葉月はスポーツ万能だが勉強は苦手な典型的なアウトドア派で、何にでもまっすぐで、素直な少年だった。言葉遣いが乱暴で、あまり女子からは好かれなかったが、男子の中では誰よりも喧嘩に強く、一目置かれる存在だった。それに対して華月は成績優秀、温和でいつも笑っていて、何にでも優しくて人の嫌がる事でも進んでする、少し天然の入った性格で女子からも人気があったし、男子からもそれなりに好かれていた。しかしながら、そんな華月の性格を気に入らない者も男子のうちから出てくるわけだ。そんな男子が集まって、華月をいじめる作戦を練っていく。
「華月君、誰か呼んでるよ」
放課後、帰ろうとする華月を上級生が呼び止めた。彼は不思議に思いながらも、上級生の下へと行った。
「何ですか」
「ちょっとこっちに」
連れ出された場所は、校舎に接している林の中だった。そこには同級生を含む男子達が十数人いた。
「どうしたの? こんなところで」
「お前、優等生気取ってムカつくんだよ!」
男子達が逃げようとする華月の腕を掴み、地面に叩きつけると一斉に皆が殴る蹴るを繰り返す。華月が泣き出すと、逆に一層それらの攻撃は悪化した。
 男子達は去った。あまり長居はできないからだ。これがばれないようにである。華月が周りに相談をしないというのは始めから計算済みであった。華月は誰もいなくなったその場所に、静かに横たわっていた。気を失っているわけでもなければ、泣き続けているわけでもない。彼は静かに微笑んでいた。
「ありがとう」
彼の周りに集まる雑魚霊たち。華月を心配して来てくれたのだ。そんな霊たちが彼の傷口に群がり、それらを塞いでくれる。
「もう、大丈夫だから」
にっこりと笑う彼。相手が人間でなかったとしても、誰にも心配や迷惑をかけたくなかった。男子たちの予想通り、彼は今回のことを誰にも言わなかった。
 当然ながら、言わないと分かればそのいじめは更にエスカレートする一方であった。更に不幸だったのが、傷を癒してくれる霊たちのその親切であった。あんなに傷をつけたのにも拘わらず、次の日にはいつもとかわらない様子で学校に来る華月に、男子生徒は不信感を抱いた。勿論傷が治っていなければ葉月に知れる確率が高まるわけで、それは好都合だったが明らかに奇妙であった。そこからまた噂が広まっていく。
「華月は人間ではない」
噂というものは音が伝わる速さとほぼ同じスピードで広まる。更にそれには様々な不純物が付着していく。
「華月は鬼」
「華月は悪魔だ」
「華月は妖怪だ」
「華月は化け物だ」
「華月に近寄らない方がいい」
華月の魑魅魍魎説は葉月と祐樹以外の全ての生徒に伝わった。その噂が伝わると、今までの華月の行動が全て醜く生徒たちの中で変換された。時空を行き来することでテストはいつも万点なのだ、花や動物に優しいのは自らがもののけだから、といったそういうことまで騒がれるようになった。そして華月の周りには葉月と祐樹以外誰もいなくなった。しかし、葉月や祐樹に華月がいじめられている、避けられているといったことが伝わると厄介なことになることは全員が分かっていた。だから皆表面上、少なくとも葉月が見ている上ではさも華月と親しそうに振舞って、葉月や祐樹がいなくなれば華月は徹底的に無視されることになった。
 華月は孤独だった。でも耐えた。華月は深く自らを理解した上で堪えていた。皮肉な事に、自分がただの人間ではないという事は、紛れもない真実だったから。普通の人間には見えないものが見える。木の葉の上に座る可愛らしい妖精、水の中から透き通る美しい上半身を出す妖怪、浜辺で天使のような歌を奏でる人魚。動物も植物も皆言葉を持ち、世の中の汚さを語る。そして人が死ぬたびに、可憐で美しい蛍のような儚い光が空へと還っていく。治癒能力は人一倍あった。学習能力も優れていた。そして、そんなただの人間ではない自分が母親を追い詰めたという事もきちんと認めていた。そして、黒い心を白くしようとするから、一層その黒は目立ってしまうことも分かっていた。
生後五ヶ月の華月はすんなりと二足歩行を始めたのに対し、葉月はかなりの時間を要した。母親は、双子でもかなりの差があるのだと少々心配していたが、二人とも健康であったので特になにも気にすることもなかった。しかし生後八ヶ月になって葉月がようやく歩きだした、という時にはもう華月はある程度の日本語は獲得し、かつ字も読めるほどになっていた。母親はそんな華月をだんだんと不審に思ってきていた。ある日、天気も良かったので三人で公園に散歩をしに行く事にした。葉月は新しく買ってもらった靴に大はしゃぎで、公園を走る。華月は葉月と同様靴を買ってもらっていたが、その靴が汚れないように、母親のそばをゆっくり歩いていた。そのときも、しっかり彼には悪魔や霊、妖精がしっかりと見えていた。しかしそれは自分にしか見えないものだと悟っていたから、誰にもこの能力を知られないように黙っていた。
「わんわん」
葉月が犬を見つけた。大きなその犬に好奇心を抱いた彼は犬を追ってとてとてと覚束ない足元で歩き始めた。
「葉月ちゃん」
母親が葉月を追った。華月も置いていかれないように急いだ。犬は飼い主に連れられ、公園を出て横断歩道を渡った。葉月もそれを夢中で追った。
「わんわん、待って」
母親が悲鳴を上げて動けなくなった。歩行者用の信号が赤になった。ちょうど、大型車トラックが向かってきた。トラックの運転席からでは葉月は小さくてその姿を確認する事はできないだろう。
「葉月ちゃん!!」
声に気付いて葉月が振り返った。
「はーくん」
華月が急いで葉月のもとへ行った。そして葉月の背中を両手でおもいきり押した。葉月はなんとか道の脇に転がった。
「華月ちゃん!!!」
嫌な音がした。華月はトラックに当たり、アスファルト面に倒れこんだものの、車輪と車輪の間に入り、轢かれることはなかった。しかし頭を確実に打っている。命の保障はない。葉月は転んだ衝撃で泣いている。母親がふらふらと華月に駆け寄った。
「華月...ちゃん?」
「ま、ま...、はーくん...は?」
生きていた。生きて話す事も出来た。しかしそれはタブーだった。母親は人間の声とは思えないような悲鳴を上げた。華月の顔面が死人のものでなければおかしいほどに大きく潰れていた。いつもの可愛らしい顔からは想像もできないほど醜く、吐き気をも誘う。更にそれの気持ち悪いところは、その潰れた顔面がまるで巻き戻しでもしているかのように、驚くべきスピードで回復しているのだ。
「化け物―――――!!」
母親が子供に向けたその言葉は華月を大きく傷つけた。しかし母親も同時に深い悲しみと自棄に襲われた。自分の腹の中に、人間ではないものが混ざっていたのだから。その日から母親は精神病にかかり、何ヶ月もの入院生活の末、兄弟には「自殺した」と告げられた。
 華月はその自殺が自分のせいだと分かっていた。だからこそ何も言い返せなかった。母親を殺した罰なのだとも思った。いつも葉月たちがいるときにだけ見せてくる同級生の笑顔は空っぽで何の感情もない奇妙なものだった。それが逆に華月を一層孤独にさせる。誰も周りにいない。一人ぼっち。二人がいなくなるといつも教室から華月の存在が消えた。更に二人の前ではいじめられているということがばれないように振舞うことで更に二人の前からも自分の存在が消えたような衝動に駆られる。しかし、唯一自らの存在が残っている場所があったのだ。それが校舎に隣接している林の中だった。男子生徒に呼び出され、暴力を受けるその場所にだけ、実は華月の存在が許されていたのだ。
「誰か体育倉庫の掃除やってくれるやついないか」
 教師のそんな提案に、男子は食いついた。
「俺やります」
男子が数人手を上げた。
「あと一人...、華月。またお願いできるか?」
「あ...はい。全然...構わないです...」
「じゃあよろしくな」
行けばまたボコボコにされることは分かっていた。それでも行かざるを得なかった。行かなければきっと男子は先生に「来なかった」と告げ口するのだろう。担任を裏切りたくはなかったのだ。
 血が溢れた。体育倉庫の中で気が遠くなるくらい殴り続けられた後、その中に閉じ込められた華月は、埃臭い中でゆっくりと立ち上がった。
「お腹...空いたな」
体育倉庫の窓を開け、その窓から外へと脱出する。幽霊たちに、内側から鍵をかけてもらって、いつも通り帰宅する。
「遅かったな。どうした」
「買い物。ノート切らしちゃって」
ノートは全て男子生徒に棄てられた。
「ごめんね、今から食事用意するから」
「サラダなら作った。」
「ありがとう」
「千切るだけだし」
「うん」
笑顔を作って、華月はキッチンに向かった。葉月の前で弱音を吐いてはいけないと、日に日に華月のつける仮面は厚くなっていった。笑顔の仮面。厚くなればなるほどそれはまるで化粧と同様にどんどんと不自然なものとなっていった。ばれるかばれないか、それを心配するだけで重たい鉛のような仮面は更に重さを増し、外れそうになる。
「ご馳走様」
お腹はまだいっぱいになっていないのに、葉月との空間が辛すぎて、席を立ってしまう。
「大丈夫か、お前。最近凄い少食じゃん」
葉月の言葉にギクリとした。
「ばれた? ダイエット中なの」
「女じゃあるまいしそんな変なことすんなよ。体壊すぞ」
「腹の肉が。内臓脂肪には注意しなくちゃ」
「そんな太ってねぇじゃん」
「見えないだけだよ。僕って着痩せするんだ」
「じゃあ見せろよ」
「やだよ。気持ち悪い」
治しても痕になっていた。服を着て見えるところから優先して傷を完治させていくために、腹部などの普段見えないところは基本的に後回しにしていた。笑いながら軽く拒絶すると自室に戻った。戻ったというよりも、駆け込んだ、という表現の方が正しい。窓の外にはぽつりぽつりと、まるで華月の涙に便乗しているかのように雨が降り始めた。
 鏡に映る、ただの人間ではない自分が醜くて。そんな自分を慕ってくれる方が、なんだかおかしいような気もしてきた。友情とは何なのか。自分は何のために生まれてきたのか。もし自分がこの世から消えても誰も泣いてくれないのではないか。華月は自棄になって、自傷行為を始めた。
「何で血が出るの? 人間ではないのに」
いっそ死んだほうがマシだと華月は白い骨が見えるまで手首を傷つけた。横に切るだけでは死なないのは分かっていた。だから血管に沿うように縦に、カッターを入れる。
「誰か、僕を殺して」
生きている事が苦でしかなかった。何も楽しみなんてない。ただ辛いだけ。透き通っていたはずの華月の美しい瞳に、白い靄がかかっていた。
 次の日、下校途中に華月は荷物持ちとして扱われた。
「速くしろよ。グズ」 両手にいっぱいのランドセルを持って一生懸命歩く。堤防の上で、華月は足を挫いて倒れこんだ。
「何してんだよー!!」
ゆっくりと立ち上がろうとしたとき、
「俺のランドセル壊すなよ!!」
と、男子が一人、華月の腹部を蹴り上げた。他の男子もそれに便乗して蹴る。華月は堤防から転がり落ちた。
「落ちた落ちた」
笑いながら見ている男子生徒。華月はその勢いのまま、川に落ちた。
「ヤバくね?」
「大丈夫だよ、妖怪なんだから」
「でも」
「...逃げようぜ」
男子生徒たちは退散した。華月は川の流れに身を任せていた。昨晩の雨で水量は増し、流れも激しくなっている。華月は死を覚悟した上で、特に抵抗する事もなく沈んでいった。
『華月』
誰かが華月を呼ぶ声がした。その声は掠れていて、濁流と同化していた。しかししっかりと華月の耳には届いた。また悪魔か何かが自分を助けてしまうのか。
「死にたいんだ、ごめん。こないで」
華月の心が叫んだ。
『華月』 何かが華月の身体を覆った。何かに抱きしめられて華月は驚いた。
『俺がお前を守るから』
その声の主は自らの体も持たずにできそこないの格好で、華月に優しく話しかけた。その声に吸い込まれるように、華月はゆっくりと意識を手放していった。
 気付くといつものキッチンにいた。
「ただいまー。おう、華月。今日は早かったんだな」
ちょうど葉月が帰ってきて華月に声をかける。いつもとかわらない風景。いつもと同じ感覚。ただ違うのは、自分の中にいつの間にか存在する、悪魔だった。それがカヅキであった。

 カヅキの言葉が胸に沁みた。兄だから、もっとしっかりして、家事をして、勉強もこなして、頑張らないといけないと思っていた。いつも我慢して、我慢して我慢してきた。
 人間には見えないものが見える自分。人間とは違う自分。人間ではない自分。自分の全てが嫌いだった。普通の人間になりたかった。平凡を、できることならば、葉月の知る平凡を一度でいいから見てみたかった。
「ピノキオだって最後に人間になれたのに。僕はどれだけ祈っても、どんな善行をしてもただの人間にはなれない」
人よりも治癒能力が異常に高かった。幼い頃から、母親を亡くしたのは自分のその能力の所為だと自覚してそれを無意識に制御してきた。人間ではない自分が悪魔のトリルを弾きこなす事ができたなら、なんとなく自分に打ち勝てるような気がしたから。
 いつの間にか何度も何度も上塗りを繰り返して仮面は分厚くなっていた。その仮面をはずして、華月は静かに涙をこぼした。
「人間じゃないのに、何で僕泣いてるんだろう」
イギリス人の批評家が、「人間こそは笑い、また泣くところの唯一の動物である。つまり人間こそ、あるがままの事実と、あるべきはずの真実との相違に心打たれる唯一の動物であるからだ」と述べているのを不図思い出した。人間だけが笑い、唯一人間だけが泣くはずなのに、何故自分も泣いているのか。汚い涙を両手で擦りつけ、華月は止まらない涙を悔やんだ。
「何でこんなに中途半端なんだろう」
どちらの世界からも拒まれる。どちらの世界にいても自分は間違っている。人間になりたかった。どうせなら悪魔にでもなってしまいたかった。自分が人間なのか悪魔なのか、それとも他の存在なのか、全く分からない。存在意義が薄れていく。
「事実は変えられない」
華月が力なく呟いた。それを聞いてカヅキもそれに応える。
「でも、華月。真実は変えられる」
華月がここにいることは間違いではないのだと、不器用なカヅキの彼なりの慰めだった。
「ありがとう」
いつからだろう、本当の笑顔を忘れたのは。華月は、何年も忘れていた、本当の笑顔を、カヅキに贈った。









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