木の上。
そこには一羽のカラスがいた。

「はぁ...ぁ...」
両腕を押さえ、蹲ったそれは、
荒い息を懸命に抑えた。

「すまない」
黒い翼の持ち主とは別の枝に、もう一羽のカラスがいた。
「だ、いじょうぶ」
血に濡れた漆黒の翼が、呼吸に合わせて若干動く。
「大丈夫じゃないだろ、」
「...僕死んだらよかったのに」
「...」
「今死んだらさ...、美裕さんはきっと葬式には来てくれないだろうね...
 それに...誰が僕なんかのために泣くんだろ...」
「俺がッ、俺が泣く!! ものの怪だから涙でないけど泣くからっ」
懸命に華月を慰めようとする彼は、
ものの怪。

華月の中に日頃は身を隠す異物だった。
魔界でもトップクラスの魔力を持った彼は
ある時魔界に迷い込んだ霊魂を無許可に助けたことから
魔界に居られなくなった。
霊魂の導きを得て、人間界に逃げ込むと、霊魂の導きを得てこの街に来た。
そこで華月に出会った。

華月は、死に掛けていた。



小学校で、イジメを受けた。
最初は、皆に好かれ、学業もスポーツも完璧だった華月に対する妬みが原因だった。
しかし、そうやって暴力を振るっても、すぐに傷が完治してしまうことから、
華月の魑魅魍魎説が生まれた。
やがて華月は悪魔だと噂されるようになり、
誰も彼に近づかなくなった。
当然ながら集団無視が祐李や弟の葉月に知れるのは不味いと思ったのか、
二人がいる間にはあくまで仲の良い振りをする。
それがあまりにも虚無で、華月の心を更に傷つける結果となっていた。

どこにも居場所がない。
唯一あるのは、自らが殴られ、蹴られているときだけ。
痛かったし、辛かった。
でもそこには自分という存在があった。
華月は、耐えた。


これが罰だと思っていたからである。




母親が死んだと告げられたのは華月が生まれて間もない、
まだ1歳になるかならないかの時だった。
自殺だったという。
母親は、葉月と華月と常時共にいることで、
段々と華月の異変に気付いていた。
尋常ではないスピードで立ち上がり、読み書きを覚え、
1歳にもならないうちに全てのひらがなは網羅した華月を、
周囲は天才だという反面、
母親は華月にただならぬ恐怖を感じていた。

もしかすると何か化け物なのではないだろうか。

それを確定させたのは、ある晴れた日の散歩中の出来事だった。
新品の靴にはしゃいで、覚束ない足取りの中前へ前へと進んでいく葉月を
華月と母親は追いかけた。
ところが、葉月は思った以上に早く、彼はそのまま道を横切ろうとしていた。
「葉月!!」
信号は赤だった。
真っ青になり、母は動けなくなった。
まるで魔法にでもかけられたように、金縛りにでも遭っているかのように
立ち止まってしまった。
「はーくん」
懸命に追いかけた。

弟を追いかけた。
「はーくんっ」
強く呼びかけると、葉月は立ち止まり、振り返った。
そして、笑った。

何の笑みだか分からない。
ただ駆けつける華月にたいする笑顔なのか、それとも。

横から走ってきた乗用車のクラクションが鳴り響く。
華月が、葉月を突き飛ばした。


葉月は泣いていた。
えんえんと泣くすこし離れた所で、華月はぴくりともしなかった。
母親は、ふらふらと歩み寄った。

「か、づき...?」
血の溜まりに浸っている華月を、恐る恐る揺らしてみる。
「ま...ま...」
ヒューヒューと喉から空気の漏れる音がしたと思うと、
首をゆっくりと擡げて、母親に手を伸ばした。

空気が静止した。

「いやぁあぁぁぁぁああああッ!!」
ごと、とアスファルトに頭が打ち付けられた。
母親が手を離し、華月の体を投げ捨てたからである。

傷口が塞がる。
陥没した頬や頭部がグロテスクに逆再生を行っている。
瞳が金色に光り、それは人間とはかけ離れた姿であった。

母親の神経は崩壊し、
数日後自殺したということが告げられた。


母親を殺したのは自分だという自覚があった。
だからこそイジメに対してなにも言う事は出来なかった。
ただ黙って、それを黙認し、やつらの操り人形に成らざるを得なかった。
それが自分の免罪符だと思ったからである。
免罪符は所詮免罪符に過ぎず、本当に根本の罪が消えたわけではない。
それでもそうする事で華月の神経が守られた。
これは罪償いなわけではない。
ただ自分を楽にするためだけの、自分勝手な見解に過ぎなかった。




「僕もう駄目だよ」
震える手をもう片方の手で押さえつけた。
「もうこれ以上人間の真似なんてできないよ...。
 ピノキオは人間になれたけど、所詮僕はなれないんだよ..
 どんなにいいことをしても、どんなに祈っても」
どんどん変わっていってしまう。
あんなにそっくりだったのに
いいや、最初からどこも似てはいなかった。
葉月。

双子なのに。
なんでこんなに。

涙が零れた。
「僕は泣いちゃいけないんだ...。
 人間じゃないのに...泣いちゃいけないんだ」

人間こそは笑い、また泣くところの唯一の動物である。
つまり人間こそ、あるがままの事実と、あるべきはずの事実との相違に心を打たれる唯一の動物であるからだ。
とイギリスの批評家ウィリアム=ハズリットは述べている。

「自分には、泣く資格なんてない」

「でも由里奈はっ...」
母親である由里奈は、生きていると
カヅキが口を開いた。

「あははっ...」
渇いた笑みを零す華月に、カヅキはぎょっとした。
「僕はそれでまた罪を犯してる」
母親と体を重ねた。

「僕はもう、ぜぇんぶ腐ってる」
「でもお前はっ...望んでなかった」


死んだはずの母親に再会したのは、彼が中学二年の冬だった。
休日に、単身赴任中の父親を何故か街で見かけ、それを追っていたら父親が女と会っているところを目撃した。
その女は、間違いなく母親だった。医者には死んだと言われていたのに、何故生きているのだと華月は固まった。
父親が、母親に戻ってきてくれと頼んでいる。しかし母親はそんな父親に冷淡に言う。
「結婚した覚えがないのだから嫌だ」と。母親は、記憶喪失だった。華月はよろよろと家路についた。
過去がフラッシュバックしてくる。彼が母親を狂わせたあの忌まわしい事件が、カタカタと脳裏に浮かんだ。

何も考えずに歩いた。家路に着こうとしているのに、家に向かっているのかも分からない。

ドスっと誰かに当たって我にかえった。
「す、すみません!!」
相手は小柄な女性で倒れてしまったから、華月は慌てて彼女の手を取った。
「...あ」
「すみません、どこか痛いところは」
「大丈夫。吃驚しただけだから」
「良かった...、すみませんでした。ちゃんと前見てなくて...」
華月はぎょっとした。よく見ればその女性は自分の母親だった。
「服汚れちゃった」
「え? あ、すみ、すみませんっ、何か代わりの服...僕が買いますから」
母親は満面の笑みを浮かべた。そして唐突に華月の腕に自らの腕を絡ませた。
「っえ!?」
「君可愛いねー!! 超タイプ! 服買って、それからお茶! デートしよ?」
なんとも言えない唐突な誘いを、華月は断りきれなかった。そして気付けば禁断の行為にまで走ることとなった。

初めての行為。
知識もなにもなかった華月は、その快感を母親から全て教わった。

「僕はっ...!!」
発狂寸前の華月が壊れてしまわないように、カヅキがそっと抱きしめた。
「僕は生きていちゃいけないんだ...」
「大丈夫、お前は生きてるんだ」
「でも生きてちゃ...」
「お前はあったかいんだ」
頭を強く撫でられる。
血で固まった頭髪がくちゃりと揺れる。

冷たいカヅキの手が頭皮に触れた。
冷たいカヅキの胸が、頬に触れた。
冷たい。

「俺はこの温もりさえ与えられなかった。
 お前が...羨ましいんだ」

華月は一瞬目を見開いて、それからその愛撫に目を閉じた。







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