貧血だった。脱血に等しいレベルの大量出血をしておきながら、血が欠しいレベルで済んでいる方が不思議だ。彼は自分の部屋のベッドで大人しく寝ていた。 「頭痛い」 眩暈と頭痛に襲われながら喘いでいると、突然電子音が鳴った。 「っわ、わ!!」 急いで転がり起きると、ベッドの下に隠しておいた携帯電話を取った。 「も、もしもし、由里奈さん?」 『あ、ごめん。華月。突然電話して。学校じゃなかった?』 「今日は早退してきたんです」 『あっ、ごめん。具合悪いんだ...』 「いえ!! えっと...由里奈さんの声聞いて元気出ました」 声のトーンが落ちた由里奈を励まそうと彼は言葉を見繕う。 『そう? なんか私も華月の声聞いて元気ほしくなっちゃってさ』 会いたいんだ、と由里奈は遠回しに彼を誘う。それを華月はすぐに気付いた。自分から誘わねば、と華月は由里奈にこれから時間空いていますかと問うた。 駅前の喫茶店で待ち合わせをした。早めに来て、コーヒーを頼んで一番奥の席を選んで座る。その席から見える風景を静かに見下ろしながら、少し頭痛が残る頭を休めていた。一つ一つの行動をとるたびに激しい眩暈も襲ってくる。しかし、由里奈を悲しませたくはなかった。 「母さん」 強く握りこぶしを作った。意識を保つためである。誰にも聞えないような小さな声で彼は母親を呟いた。母親を悲しませたくはなかった。だから、この苦痛を堪える。今から、母親に、会う。 死んだはずの母親に再会したのは、彼が中学二年の冬だった。休日に、単身赴任中の父親を何故か街で見かけ、それを追っていたら父親が女と会っているところを目撃した。その女は、間違いなく母親だった。医者には死んだと言われていたのに、何故生きているのだと華月は固まった。父親が、母親に戻ってきてくれと頼んでいる。しかし母親はそんな父親に冷淡に言う。「結婚した覚えがないのだから嫌だ」と。母親は、記憶喪失だった。華月はよろよろと家路についた。過去がフラッシュバックしてくる。彼が母親を狂わせたあの忌まわしい事件が、カタカタと脳裏に浮かんだ。 何も考えずに歩いた。家路に着こうとしているのに、家に向かっているのかも分からない。ドスっと誰かに当たって我にかえった。 「す、すみません!!」 相手は小柄な女性で倒れてしまったから、華月は慌てて彼女の手を取った。 「...あ」 「すみません、どこか痛いところは」 「大丈夫。吃驚しただけだから」 「良かった...、すみませんでした。ちゃんと前見てなくて...」 華月はぎょっとした。よく見ればその女性は自分の母親だった。 「服汚れちゃった」 「え? あ、すみ、すみませんっ、何か代わりの服...僕が買いますから」 母親は満面の笑みを浮かべた。そして唐突に華月の腕に自らの腕を絡ませた。 「っえ!?」 「君可愛いねー!! 超タイプ! 服買って、それからお茶! デートしよ?」 なんとも言えない唐突な誘いを、華月は断りきれなかった。そして気付けば禁断の行為にまで走ることとなった。 突然誰かの手によって視界が塞がれた。吃驚して振り返ると、その反応に満足げに笑う由里奈がいた。 「おまたせ」 小さなダイヤモンドの粒のように輝く笑顔が、華月の心に傷を付けていく。奥の席なので、彼女は華月にキスしよう、と目で訴える。華月はどんどんと深みに嵌っていく事を恐れながらも、目の前にいる人の要求を拒めないでいた。華月は由里奈の肩に手を置いてそっと引き寄せると、彼女に教えられたキスを贈った。 職場から直接喫茶店に来た彼女と合流した華月は、そこの店を出て数駅離れた彼女の自宅へ向かう。手を繋いで指を絡めて。昔幼かった彼と母親の手の繋ぎ方とは全く違う。そして今では華月のほうが身長も高い。華月は由里奈の斜め後ろを歩く。彼女の丁寧にセットされた茶髪の巻き髪が靡くのを見ながら、彼は少しだけ寂しそうに一人で微笑んだ。生きていてくれるだけで嬉しい。叶わなかった親孝行を今遠回しにでもしてあげたかったから。 由里奈の現在住むマンションの一室に来た。 「おじゃまします」 もう彼には馴染みある部屋になっているが、それでも彼は律儀にしっかり靴を揃え、軽くお辞儀をしてから入室した。由里奈は自室に入るとすぐに華月の手をぐいとひっぱりキスをした。彼女は強引にベッドシーンに持ち込んだ。 由里奈が目覚める前にシャワーを浴びて夕食の準備をしておいた。匂いに釣られて起きてくる由里奈に入浴を促す。 「ホント料理上手だよね」 「そう言って貰えて嬉しいです」 満面の笑みを浮かべる彼女に、彼も同様に微笑んだ。昔夢に描いていた母親への親孝行。母親のために料理を作ってあげられたかったあの頃の純粋な夢が少し歪んだ形で実行される。母親に褒められたその言葉が彼には至極嬉しくて思わず照れ笑いをする。表面上はなんの変哲もない二人の朝の穏やかな時間に、特に目を留められることのないテレビが勝手に近頃起きた事件を報道する。 『続いて、連続殺人事件についての新たな情報です。犯人は未だ分からず――』 三日ほど前から連続して殺されているその事件は、由里奈と華月の住むこの市内で行われたものだった。 「大丈夫? 最近物騒だから...送っていくよ。駅まで」 心配する由里奈は、華月の地元の駅まで送ってくれた。そして彼女は名残惜しそうにゆっくりと華月の手を離した。 「またメールくださいね」 「うん。」 寂しそうな顔をする由里奈に、華月は胸を痛めた。別れ際に華月は思い出したように由里奈に質問をする。 「由里奈さんは何か欲しいものありますか?」 もうすぐ母の日だった。 「 」 電車が通り、由里奈の声はかき消された。 「え、すみません。聞えなかった」 「あ、うん。また華月くんの料理食べたい」 由里奈は最後まで丁寧に振り返って手を振る華月に、複雑な想いを寄せながら手を振り続けた。 本当に欲しかったのは、華月の「愛」だった。彼が自分を愛してくれていないことを彼女は気付いていた。彼は何でもしてくれる。至極優しい。それなのに愛が欠落していた。彼が自分ではなく、何か他の自分以外のものを見ていると分かっていた。何故彼は自分にこんなにも優しくしてくれるのに、自分を愛してくれないのか。そんな彼の優しさに虚空感と悔しさを覚えた。 家に帰ると第一声が葉月の怒鳴り声だった。 「ほっつき歩きやがってお前は体調はどうなんだよ!!」 「いや、びょ、病院に行ってきたんだ」 「...そうか、なんだって?」 「胃潰瘍」 葉月には何も話していない。母親と交際していることも、母親に父親が密会していることも、母親が生きているという事も。適当な病名ではぐらかして、華月は自分の部屋に逃げた。 ベッドでただ自分の世界に入っていた。窓から部屋を照らす紅い光がまるで血のようだ。貧血はもう治っていた。溜息を連発しながら、ごろんごろんと鉛筆のように布団の上で転がってみる。しかし、途中でどすんと落ちた。 「カッコ悪...」 頭を抑える彼の目に留まったのは、ベッドの下にいつも隠している携帯電話だった。 「まさか」 こう覗いてみると意外と携帯電話は目立つものだ。まさかゴールデンウィークのあの日に、美裕にこの携帯電話を見られていたのではなかろうか。それが一番しっくりくる答えだった。 青ざめた。原因は分かったが、解決策は更に闇の中へと入っていった。どうすればいい、言い訳なんて効かない。そんな時、コンコンとドアが叩かれた。 「食事。それから祐樹が」 「あ、うん」 ドアが開かれると、スープがのったお盆を持った葉月とその後ろで綺麗な花を持った祐樹が心配そうな表情で立っていた。料理の不得意な葉月が一生懸命作ったのだろう。お米やジャガイモなどがすりつぶされて入っているそのビシソワーズのようなスープはいい香りを部屋に充満させた。 「華月...大丈夫? 青いけど」 「うん、大丈夫」 祐樹が花を机の上に置いた。 「入院とかじゃなくてよかった」 祐樹は特にそれ以外今回の吐血の件については何も言わなかった。彼がそれについて話題をあげないのを見て、葉月も特に何も喋らなかった。 「美味しい。葉月、ちゃんと作れるじゃない」 「ちゃんと調べて作ったんだぜ」 「ありがとう...、ごめんね」 「華月が何で謝るのさ」 祐樹が真っ先に華月の謝罪を否定した。 「何も華月は悪くない。悪くないよ。いつでも僕の所に来るんだよ」 祐樹は葉月よりも先にその言葉を言う必要があった。彼の内心は激しく焦燥感に駆られていた。 「ごめん、僕帰るけど...、僕の、ケータイ貸すから...これでいつでも僕の家に掛けて」 「...子機あるし...大丈夫...」 「いいから持ってて」 祐樹は強く華月にそれを握らせた。家が離れている以上、それしか彼にできることはないから。 次の日いつも通りに登校した彼に、校内中が驚いた。教員も、生徒もだ。美裕も少し驚きながらも、顔には出さずにツンとしていた。誰にも心配掛けまいと笑う彼。大丈夫、という言葉を今日一日で何回発しただろうか。 「祐、コレありがとう」 「うん、良かった。何もなくて」 携帯電話を返す。祐樹は今日彼が学校に来たということに驚きよりも安堵の感情を見せた。 葉月は苦悩した。何でも一人で全てこなしてしまう華月を憧れの存在として見ているが、今現在の時点では、憧れよりも不安という感情の方が圧倒的に大きかった。 「だああああ!!」 葉月の奇声に華月が驚いて顔を上げた。 「ど、どうしたの」 「お前!! また請合っちまったのか!! 図書委員の委員長!!」 「高三は受験で皆忙しいんだって」 あっけらかんと答える華月に彼は再度声を荒げる。 「他にも高二いるだろ!? そいつらに頼めよ。お前は体調が万全じゃないんだから」 「葉月、僕は元気だから。病人扱いしないで」 「事実ですが」 「もう元気だって。学校の裏山完走できるくらい」 「嘘付け。また吐血するぞ。お前ホントお人よし過ぎ」 華月は自分のどこが、と真顔で言っているが、葉月はそんな世間知らずとも言えてしまう華月の性格がどうしても不安で仕方なかった。 「もう少しわがままになってくれよ」 「我侭? わがままなんてしょっちゅう言ってるよ」 にっこり笑殺する華月に葉月の懊悩たる思いは膨らむ一方だった。 「無理すんな。無理だけはしないでくれよ。今笑ってると、後で泣くぞ。」 葉月の台詞に吃驚して目を見開いた。そして華月は俯いて小さく頷いた。 大きな黒い翼を広げて、カヅキは殺風景な景色を眺めて浮遊していた。華月の中にいることで、彼に無理をさせたくなかった。かなりの上級悪魔である彼が中にいて華月の負担になるのなら、自分が彼を守りたいと言ったことが完全に嘘になってしまう。時折教室を覗いては彼の様子を確認する。彼を守る事が自分の使命。カヅキの主人が華月を守るように命じたからである。屋上に着地すると彼は大きく伸びをした。心地よい風を受けて、彼の漆黒の長い体毛が靡く。 「綺麗なところだよな」 ぶるぶると身を振るって身体についた汚れを落とす。ふうと息を吸った時、彼の鼻が馴染みある「臭い」を感じた。 「!」 カヅキの全身の毛が逆立った。華月の体調の悪さを狙って魔界から使者がやって来たのだ。強すぎる彼の能力は大魔王にとって不必要なものだ。カヅキは、華月と自らの主人と魔界のものにしか聞えない遠吠えをした。 「先生、気分が悪いので、保健室に行ってきます」 「え? あ、華月!! 僕保健委員なんでついていきます」 華月が思わず廊下に飛び出したのを見て、祐樹も華月を追いかけた。 「大丈夫だよ、僕一人で行けるから祐は授業受けてて」 「...本当に?」 「うん」 華月が廊下を走り出す。勿論保健室ではなく屋上へ向かって。祐樹はその様子を黙って見つめながら、華月の姿が見えなくなると彼とは逆方向に歩き出した。 「華月、どうすればいい? 大魔王の直々の悪魔」 「カヅキは大丈夫。僕だけで、できるから」 今まで隠していたもの。大切なものを守るためになら使える。大切なものを守るためだけに使いたい。一番自分の醜いところ。人間ではないところ。 「平気だよ? もう隠し切れないから」 華月がカヅキを振り返って笑う。そして彼は天を仰いで息を静かに吸った。 「 」 声にならない歌を。 「 」 空気を震わせ、風を起こし、 「 」 大地を揺らし、精霊を呼び覚ます。 「 」 この世のものとは思えないほど美しい、「悪魔の歌」を。 「 」 大きな黒い狼に跨ったその悪魔は、梟の頭を持っていた。 「アンドラスだ」 カヅキが叫ぶ。アンドラスは魔界でも非常に破壊的で凶暴な悪魔らしい悪魔である。目を瞑り、無言の言葉を奏でる彼にカヅキは死を覚悟さえした。走り来るアンドラスに華月は唐突に目を開けた。済んだ金色の瞳。アンドラスは右手に持つ剣を抜いたが、火の精であるサラマンダーを中心にした精霊たちによって焼き尽くされた。 右手にまだ少し反動を感じた。能力をこのように使うのは初めてだったからであろう。華月は少し胸が痛かった。人間という皮を脱してしまった。もう戻らない。もう戻れない。静かに両目に手を当てて、その異常な金色の瞳を茶色く戻した。 「凄いでしょ」 えへへと何食わぬ笑顔を見せる彼にカヅキは呆然とした。自分が守りたかったものは、自分よりも圧倒的に強かった。彼が強いことは知っていた。しかし、ここまで歴然とした差があるとは思いもしなかった。守る必要なんてなかったのだ。 「そうだな」 カヅキは歪んだ笑顔を作って、華月を授業に戻らせると、主の下へ今回の一部始終を報告しに行った。 「俺必要ないのかも」 「何でそう思う?」 「華月強いから、俺なんて要らない」 「君は彼にとって大切な人なんだよ。彼は君を失いたいなんて思ってない」 主は静かに笑った。 「俺が華月のすぐ隣にいれない代わりにお前に華月を頼んでるんだよ」 穏やかな口調。 「だから、華月がアイツに近づきすぎないようにしてくれ」 ゆっくりと、カヅキに言い聞かせる。 「あと...アンドラスが華月に殺されたとなると、アイツも本格的に動き出すはずだ。しっかり頼む」 「分かった」 「華月はまだ、何も知らないから」 相手が人間であってもなくても殺したということには変わらない。華月は机の上に広げた両手をぼんやり眺めた。華月の暗い表情に、沢山の小さな名もない悪魔達が寄ってくる。慰めてくれているのだろう、ぽわぽわとその手の周りを浮遊する。華月はまた笑って、授業に集中し始めた。 今までこんな事なんてなかった。何故あんな危ないものが此方の世界に来たのだろう。華月は何も知らなかった。今の現状、そして自らの事を、何も理解出来ていなかった。だからその答えを導き出す事は出来なかった。世界は華月が思っているよりもずっとずっと広かった。 back/next |