梅雨が過ぎた。もうすぐ夏休みだ。そして華月たちの学年は夏休みの終わり、八月二十五日からある四泊三日の修学旅行のための班決めで盛り上がっていた。
「同じ班でいいよね?」
張り切っている祐樹が班分け希望表に自分と華月の名前を書く。
「後は誰? 四人一班だけど」
「葉月と」
「...うん」
几帳面な字で、葉月の名前を加える。
「あとは」
本当は美裕と同じ班が良かった。四月の時点では「同じ班がいいよね」と言っていたのに。ちらりと美裕の方向を見る。楽しそうに、女子と話している。
「ゆ、祐は誰がいい?」
「んー? ...じゃぁ近藤誘う? ...随分ムサイグループになるけどね」
「でも、男子三人で女の子が一人来てくれるわけないじゃん」
その台詞を女子達は聞き逃さなかった。華月・葉月・祐樹というかなりレベルが高い男子の中に、逆ハーレム状態の三泊四日はあまりにオイシイ。
「私でよければ」
「あ、ずるい! 私が」
必死な女子達の猛烈なアピールが始まる。
「え? だって皆もうグループ決まってたでしょ?」
鈍感な華月が素っ頓狂な声を上げる。
「美裕誘おうよ」
祐樹が唐突に提案した。華月と美裕が気まずい関係だということはよく知っていた。だからこそ、この修学旅行を機会に仲直りさせようとしたのだ。
「え、でも」
「美裕、僕らの班においでよ」
拒否する間も与えずに美裕に声を掛けた。
「は? 私千尋たちと」
「いいじゃん、行きなよ! ちょこっとさり気無く合同で行動しちゃえばいいし!」
「はぁ?」
「僕からの直々のお願いなんだけど」
祐樹がにっこりと微笑む。毒舌極まりない美裕も、この意味深な笑顔に否定する事ができなかった。周囲としては、美裕を目的と言いつつも男を目当てに二班でさりげなく班行動する予定らしい。美裕がそちらの班へ行く事を激しく希望している。
「一日美裕の言う事全て聞くよ」
「全裸で校内一周」
「犯罪系は却下で。公然わいせつ罪でしょ」
「じゃあすし屋で一日食べ放題」
「金品系NG」
「じゃあ何も出来ないじゃない!」
「荷物持ちとかさ、あ、僕下の世話も得意だから」
「ぶっ殺すわよ。明らかに犯罪じゃない。却下却下」
手をひらひらとして誘いを断る美裕に、周囲が猛反発した。
「美裕!! そっちのグループへ行け!!」
「は?」
「千尋が華月くんのこと好きだって知ってるでしょ!? ちょっとは協力しなさいよ!!」
小声で美裕に叱りつける。
「じゃあ千尋が行けばいいじゃん」
「無理無理、私、無理っ、そんな!! 恥ずかしいもん!!」
真っ赤になって泣きそうになる千尋に、美裕は顔を手で覆って溜息をつくと、祐樹の誘いを呑むことにした。
 祐樹の唐突の行動に華月はわけが分からなかった。その場から逃げ出したいくらい、泣き出しそうなくらい胸が痛んだ。長崎は華月の憧れている土地であり、とても楽しみにしていたのにもう待ち遠しくもなんともない。梅雨は終わったのに恐怖と不安の厚い雲で覆われた。
 蝉の鳴き声がぼちぼちと聞えてきた。この程度ならまだ喧しくもなく風流的でいいものだと思いながら、早めに夏休みの宿題に取り掛かる。電気代節約のために夏場は基本的にリビングで二人一緒にいるようにしている。
「sin(α+β)が...」
「sinαcosβ+cosαsinβ」
「言うなよ」
「これくらいぱっと出てこないと。テストの時は計算で時間とられちゃうから暗記系で時間稼がないと」
「あー、コレ!! 良い暗記方法見つけた」
「『咲いたコスモスコスモス咲いた』でしょ」
「そんなのつまんねぇよ! 『清水、今度、コンパ、しようぜ』!! めっちゃ覚えたー!!」
「なにそれ」
三十ページほどある数学テキストが丸々宿題であった。葉月は前髪をかき上げながら集中力も途切れ途切れに余談と文句を言いながらローペースに解いている。四日後父親の現在住んでいるロンドンへと行く予定になっているので、それまでに宿題を進める計画なのだ。
「華月は美裕と」
「早く終わらせて出発の準備するんだから黙ってやろうよ」
華月が葉月の声を掻き消す。
「美裕と一緒の班で良かったのかよ」
「うるさい」
華月の口から、苦い音が漏れた。
「だってお前」
「仕方ないだろ!? 祐は美裕がいいんだって!!」
華月が乱暴に立ち上がった。そんな彼に葉月は少し驚いた。
「祐樹も空気読めねぇな...、ったく」
ぼそりと葉月は溜息をついた。華月が落ち着いた後もリビングには落ち着けない空気の沈黙が続いた。
 先に数学の宿題を終えた華月は、一度リビングを出て自室に戻った。
「はぁ」
大きな溜息が華月の周りの空気を更に重くする。暑さでねっとりとした部屋は、無駄に太陽の光を取り込み、更に気温を上昇させていた。ベッドの下の携帯電話を手にとって、由里奈に電話をする。
「もしもし」
『うん、どうしたの?』
一ヶ月間ロンドンへ行く旨を伝えると、由里奈はすこし戸惑った後言った。
『そっかぁ、じゃあ今年もあんまり会えないんだね』
「ごめんなさい。でも、お土産買ってきます!!」
『そっか...分かった。時間あったら電話して』
「分かってますよ。それじゃ、」
『気をつけてね』
ピッと通話を切る。その冷たい音が、妙に華月の中に木霊した。はあ、と大きな溜息をついて彼はそれを再びベッドの下に隠す。ベッドの下で、携帯電話はわずかな鈍い光を放っていた。電話の向こうで由里奈は静かに受話器を耳から離しながら唇をぎゅっと噛んだ。マイナスにしかならない付き合いは、いつかきっと滅びるのに。
 お互いに気を使って先ほどの話はなかったものにして仲直りという形をとった。
「夕飯はどうする...っていうか葉月まだ終わってないの? 宿題」
「うるせぇ、しゃぁねぇじゃん」
「仕方なくない。ほら、早く」
「だぁぁぁッ、何が倍角だ、このヤロー!」
「逆ギレしない」
頭をわしゃわしゃと掻き毟る葉月に華月は苦笑する。
「宿題手伝うよ。夕飯は、出前で良いかな」
「うう、サンクス! 出前でオッケー! 俺が金出すから」
「じゃあ、寿司寿司...松竹梅...竹がいいね!」
奢りと聞いて華月は寿司屋を電話帳で検索をかけていく。
「何でじゃ。ラーメンラーメン」
すかさず葉月が安いラーメンを推す。華月は、はいはいと少し残念そうに苦笑しながらラーメン屋に電話をした。
 ロンドンに到着した。十二時間の飛行機での旅行。かなり恒例の事ではあるが、やはりそれだけ乗っていると尾?骨も痛くなる。葉月は飛行機から降りると全身の筋肉をほぐした。
「あぁ、畜生。いてぇ」
「あ、父さんだ」
「相変わらず目立つねぇ。荷物を貸しなさい」
「親父の方が目立つって。そんな物騒な人達連れて」
父誠一の後ろに立つ二人のボディーガードを指差し迷惑そうに葉月が言った。
「あははは、すまないな。今仕事がかなり重要なところまで進んでいるんだ。社長が私の身を案じてくれているんだ」
「また仕事仕事」
「ああ、すまないすまない。荷物重かったろ、Carry this.」
父親は流暢な英語でボディーガードたちに荷物運びを手伝わせる。空港横に止まっている運転手付の車で華月たちは現地の邸宅に向かった。
「右肩上がりだね、父さん」
「仕事の事しか考えてねえからな、親父は」
「ははは、ちゃんとお前達の事も考えてるよ」
「そうだよ、葉月。父さんも大変なんだよ?」
「分かってるけど。でも偶には連絡入れろって」
「分かった分かった」
父親を横にして、華月はいつも肩身が狭かった。由里奈と関係を持っているということが、どうしても誠一の顔を見るたびに更なる重科となっていく。誠一がそのことを知ったらどう思うか、そんなことはすぐに分かる。だから華月は余計に申し訳ない気持ちでいっぱいで、その表情に影を落とす結果となった。
「大丈夫か? 華月」
「...え? あ、うん」
「具合悪いか? 親父、華月この前胃潰瘍で吐血したんだ」
葉月の声で我に返り、素っ頓狂な声をあげた。そこで葉月は思い出したように誠一に先日の吐血の事を報告する。
「そうなのか、華月!! 大丈夫か、病院はちゃんと行ったか?」
誠一は心配して華月の顔を覗く。しかしその誠一の愛情が、華月にはとても重たかった。
「大丈夫だよ。本当に。少しね、コンクールの事で忙しかったんだ」
とにかく話を逸らさねばと、華月はコンクールで演奏する悪魔のトリルについて話し始めた。
「悪魔のトリルか。いい曲だな。頑張るんだぞ。コンクールの時は行けるように開けておくから」
「本当?」
「そういって去年も来なかったくせに」
葉月が横でボソリと華月に呟く。
「今年はちゃんと行く。約束だ」
「天国の母さんに誓ってみろ」
葉月の言葉に、華月と誠一の表情が変わった。強張った表情。華月の手が僅かに湿った。
「そ、そうだね。絶対だよ、父さん」
葉月に合わせなければ。華月は不覚にも外れそうになってしまったその仮面を付け直して笑ってみせた。
「あ、ああ。約束する」
些か不自然ではあったものの、誠一もなんとか取り繕った。
「あ...、二人とも、どこか寄りたいところはあるか?」
「今日はもう休みたい」
「飛行機疲れたもんね」
少しばかり動揺している父親。二人の意見にまごまごとしながらも、運転手に車をそのまま家に進めるよう指示する。
 毎年のことながら、いつもこの場所には圧倒される。目まぐるしい量の車の往来。交差点にはラウンドアバウトが多く、信号機はあまりない。日本とは違い、規則に則ったものがないため、タイミングを計るのは至難の業だ。それを現地の運転手はすらりとやってのける。
「凄いね。僕じゃ絶対無理だな」
「お前、ロータリー内で延々と日が暮れるまで回ってそうだな。そのうちバターになるな」
「...バターって」
「さて、ではでは、まずどこに行こうか」
父親が横で笑っている。葉月は内心、彼もバターになってしまいそうだと呟いた。
「明日は父さんはまたお仕事でしょ? 三人で行きたいところにまず行こう」
「明日からはおじさんさんたちと一緒にいればいいんでしょう?」
「そうなるね。すまないね。予定がつまったままで」
隣の家に住む老夫婦は、普段から誠一と親しく、毎年この時期、華月たちの面倒をみてくれる。夫妻も華月たちに会うことを楽しみにしているようだ。昔は寝付くまでイギリスの御伽噺を読んでくれたものだ。
「いいよ、父さん。おじさんたちと話してるのも楽しいから」
「ありがとう」
謙虚に微笑む誠一。葉月はそんな二人のやり取りを相変わらずの無愛想な表情で聞いていた。
 結局その日は寄り道せずにまっすぐ彼らの家に行く。現地ではDetached House、日本では一軒家という父親の住まいは、日本の華月たちの家よりは少し狭いものの、かなりの高級物件であると言えるだろう。緑に包まれた茶色の屋根が覗くその家の前では隣の家のセリアー夫妻が首を長くして待っていた。
「お久しぶりです、ロイドさん、グレイスさん。これ、日本で買ってきました」
流暢な英語で華月が挨拶をして、お土産にモズクを渡す。ロンドンではモズクは一人前が千円ほどしてしまうため、毎年セリアー夫妻はこれを希望している。ハイテンションな華月と夫妻を無視して、葉月は荷物を二階の自室に運ぶ。
「葉月は去年と変わらないなぁ」
無愛想な態度にも夫妻はニコニコとしている。
「そうだ、華月。ヨークシャー・プディングを作ってきたわ。夕食に皆で食べましょう」
「あ、ありがとうございます!」
Toad in the holeと言われるそれは、ヨークシャー・プディングの生地にソーセージを混ぜて焼いたものであり、イギリスでの伝統的な料理の一つだ。嬉しそうに華月はそれをキッチンに持っていくと、早速身支度を整え、料理を始めた。
 昨晩はかなり遅くまでディナーを楽しんでいた。また、イギリスでは大人同伴でのビールの飲酒が十六歳以上なので、かなり飲んでしまっている。
「頭痛い」
二日酔いだった。
「すっかり忘れてたよ...、そうだこっちは法律違うんだよな」
ベッドの中でもごもごと独り言を言いながら頭痛と葛藤している。
「ほれ、水」
唐突に声がして、ハッと布団から頭を出すとそこにはいつもと変わらない葉月が水の入ったグラスを持って立っていた。
「あ、ありがと...、葉月」
葉月はお酒に強い。去年から二人はイギリスでは飲酒可能年齢に入ったわけだが、去年も同じような事をした記憶がある。
「昨日は僕なんかした?」
去年は食卓テーブルに伏せたまま寝てしまい、誰がどう呼びかけようと応答せずに眠ってしまったことがあった。
「いや、美裕のこと愚痴ってた」
「...」
沈黙が走った。水を飲んでいた華月の手が止まる。
「な、何を言った。日本語? 英語!?」
「いや、それは日本語で...。美裕は人気者で仲直りする暇もないくらい引っ張りだこなんだよとかって言ってたぜ」
「それ以外に何か変な事言った?」
「...お前、何か隠してんのか?」
覗き込んでくる葉月に、華月は内心しまったと思う。
「まままままさか!! そんな莫迦な」
慌てて首を左右にぶんぶんと振る。
「...まあいい。所詮お前隠し事下手だしすぐばれるし」
問い詰められなくて良かったという安堵の気持ちと、すぐにばれると言われた事に対する切なさが入り混じって変な感覚を呼ぶ。
「そうだそうだ、もう父さんは仕事行ったんでしょ?」
「おう」
とにかく話題を逸らす。先ほどの焦燥感によって酔いもかなり冷めた華月は、葉月と共にダイニングルームへと降りる。そこでは既にグレイスが昨夜の片づけを済ませ、軽い朝食を作ってくれていたところだった。時間帯的にはもう昼食だが。
「ありがとうございます」
「今日はどこかへ行くの?」
トーストの乗ったお皿をテーブルに運びながらグレイスが尋ねる。
「どうしようか、葉月」
「おじさんは?」
「植木の手入れをしているわ。夏だからね、すぐに伸びてしまうの」
日中時間が長く、九時くらいまで明るいためだろう。紅茶をティーカップに注ぐグレイスは苦笑した。
「華月」
「うん。おばさん、僕らも食べ終わったら行ってくるね」
葉月は自分が手伝う、と言うのが恥ずかしいのだろう。しれっとした態度で華月に合図を送る。
「あらあら、いいのよ別に」
「いいんですよ。一ヶ月もいるわけだし、観光なんてしないし」
毎年毎年ロンドンに来ているのでこちらの生活には既に珍しい事は少ない。
「そう? じゃあお願いするとしましょ」
華月は口に朝食を収めた。そしてミルクのたっぷり入ったイギリス流の紅茶に口をつける。
「紅茶変えましたね。ハロッズですか?」
「流石華月。分かってくれると思いました」
「同じじゃねえか」
葉月が視線を外してぼそりと聞えないように呟く。
「僕はこれが好きだし、有名じゃない? 魔法みたいに美味しいんだもの」
葉月の台詞は聞えていたようで、華月が謙虚に笑う。
「それ以外はあんまり詳しくないんだ」
「去年W&M当ててたし」
「それは有名だから...ほぼ勘だよ。葉月だってコーヒー豆当てるの得意でしょ?」
「あれは誰でも分かるだろ。お前も当てられるし...。ほら、飲み終わったなら行くぞ」
二人して席を立つ。
「可愛いねえ」
まるで自分の息子を見るような幸せそうな笑顔のグレイス。
「俺はかわいくなんてねえよ」
「僕かわいくなんてないです」
二人の声がちょうど重なったものだから、グレイスはまたくすくすと笑い出した。
 雑草抜きまでして、二人は日の暮れる頃には泥まみれになった。
「驚いた。早いな! 一週間かかると思っていたけど」
ロイドも感激だ。
「じゃあその分明日は四人でどこか昼食食べにいくか」
「その前にお土産を買っておきたいんだ」
「は? お土産って...まだあと一ヶ月あるんだぜ?」
「うん。でも忘れないように」
「じゃあ明日、お土産を買って、それから食事をしよう」
忘れないように。一般的にそれを買うことを忘れてしまう事があるだろうか。恋人のお土産なのに。
 地下鉄は確かに便利だが、木でできた床もあってあまり綺麗ではない上、初乗りが高いし、乗り越しもきかないのでロイドの運転のもと、ハイウエイを使うことにした。日本と違って高速道路は無料で充実している。
「お土産さ、何買うのか決まってんの?」
「ウェッジウッドにしようかと思って」
「げ、高いだろ。大体誰にあげるんだ?」
いつも鈍感で無関心なのにもかかわらず、そういうところだけは鼻が利く。
「は、葉月の知らない人だよ」
嘘をつくのが苦手でどうしても中途半端なことを言ってしまう。
「コレか?」
にやりと笑って、小指を立てる。
「違うよ」
動揺しそうなのを堪えて、平然を装う。
「なんだ、残念。さてと、じゃあ俺もついでにお土産買っておくかな。祐樹とかに。何にしよう。やっぱりベタに紅茶か」
ポンドは高いとぼやきながら、安い絵葉書か何かにしてしまおうかと悩んでいる。
「そんな。お土産くらい少しは奮発しないと」
「お前は奮発しすぎだ!! 高いのじゃ万単位だろうが」
「そのときのための貯金だよ」
日頃から漫画だなんだと出費の多い華月と比べて華月はほとんど無駄遣いがない。ああそうですか、と半ば自棄になってぷいとそっぽを向く葉月。二人のやりとりが面白くて夫妻はくすくすと笑っている。
 その頃日本では暑さの絶頂を迎えていた。休み中も活動を続ける演劇部はそんな中、場違いにもとても寒い思いをしていた。
「アンタ少し黙りなさいよ」
「君が黙るべきでしょ?」
演技においてはトップクラスの二人が口論を始めたのだ。
「君の演技を見てると反吐が出る」
「はぁ?」
「君はよくそんな台詞をぬけぬけと言えるね」
「何ですって?」
現在オーディションで配役を決めているのはシェークスピアの「ロミオとジュリエット」だ。ジュリエット役を希望するの美裕の台詞に祐樹は憤怒した。
「君に愛だの言えるの?」
憤慨した彼に誰も何も言えない。
「超笑える」
「何よ。じゃあアンタは相当凄い演技が出来るのね」
楽しみにしてるわ、と机を叩き上げる美裕。そんな美裕の横をさらりと通って舞台に上がった。
「彼らの刀二十本よりも貴女の瞳の方が私には恐ろしいのです。もし貴女が私を優しく見守ってくださるなら、彼らの敵意など私には関係ありません。貴女の愛なしに命長らえるよりも、彼らの憎悪によってこの命が終わる方がずっといいのです」
部員達は震撼した。その演技とは思えないほどに見ているものを吸い込んでしまう力。まるで本物のロミオのように。前には誰もいないのに、そこにジュリエットがいるかのように。しばらくの沈黙の後、ハッとしたように誰かが手を叩き、それによって現実に引き戻された部員達が拍手を贈る。
「これが知っている者と知らない者の差だよ」
そういい残して客席に戻ると、足を組んでその上で手を組み、目をゆっくりとそこに落とした。その演技の素晴らしさは美裕にも分かる。分かるからこそ腹が立った。
 知っている者と知らない者。祐樹はそれを知っている。美裕はそれを知らない。美裕にはその言葉の意味を理解できなかった。その意味を知りたかったが、あの口論の後ということもあるし、彼女のプライドが他人に教えてもらうという事を拒んでいた。
 華月の家の前でそれを見上げた。
「華月」
祐樹はそう呟いて、そのままその前を通り過ぎた。
「今は、ロンドンなんだね。どんな所なんだろう」
寂しそうに俯いて足を速めた。
 由里奈の土産を買い終えて、食事も済ませた一行は、家に戻って夕飯の支度をした。誠一も帰宅して、皆で食事をする。そして片付けも終わると、華月は自室に戻って自室の鍵を閉めた。華月は引き出しから携帯電話を取り出した。
「もしもし? 由里奈さん?」
 静かなイギリスでの日々はあっという間だった。やはり穏やかな時間が流れるこちらでも、過ぎてしまえばあっという間で、時流は日本と変わりないということを知らされる。ハロッズのデパートへいったり、バッキンガム宮殿に行ったり、ウエストミンスター寺院やオールセインツ教会などのにも行ったりした。そしてその短いロンドンでの夏は明日で終わる。
「明日でお別れね」
夜、グレイスが夕食の後片付けをしながら寂しそうに言った。
「毎年、いつもお別れは辛いのよ」
その横で皿を拭いて棚に戻す作業をしながら華月はそんな彼女に目をやる。本当に寂しそうで、胸が痛む。
「お別れというのは何度経験しても辛いものね」
「そう、ですね」
「昔、覚えてるかしら...。うちで飼っていた犬が死んでしまったときのこと」
「あ...」
華月は小さな声を漏らした。
「夏の暑さだったのかしらね。丁度貴方達が訪れている時なのに。それとも...最後に貴方達と遊びたかったのかしら」
大きなレトリバーだったのを覚えている。その犬の言葉を華月はよく聞いたものだった。セリアー夫妻を本当に信頼していて、華月にも懐いてくれた。でも、あまり葉月には懐かなかった。しかし、ある夏の日、その犬は唐突に死んだ。セリアー夫妻も華月も号泣した。その中で葉月は冷静だった。
「命はいつか、終わるものだから」
間違った事は言っていない。それは正しい事だ。でもそれは怪奇だった。幼いその少年は、まるで全てを理解しているように。
「『死を願望するものは惨めであるが、死を恐れるものはもっと惨めである』って、ハインリヒ四世が言っていたよね。それに、ヨハネの福音書では『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』とも言っているね」
そして葉月は続ける。
「『人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない』って言っていたのは誰だったっけ」
それに、当時の華月は酷く胸を痛めたのだ。
「もう私も年だからね」
グレイスの言葉で現実に返った。食器洗いを終えたグレイスが、華月の横で食器を拭き始める。
「貴方の中に、動物が見えたのよ」
『な』
華月の中でカヅキが蠢く。
「貴方にあの子は懐いていたから...。私も貴方を見るとあの子を思い出しちゃうのかもしれないわね。ごめんなさい、変なこと言って」
「い、いえ」
拭き終わった皿を華月に渡す。
「また来年を楽しみに待ってるわ。貴方達が来てくれることが人生の楽しみだもの。それ以外でも、いつでも電話してね。悩みとか...あったら。私たちは貴方達よりも長生きしてるからその分少しは経験豊富かもしれないから。...あ、そうだわ。私...聞いてしまったの。貴方のお電話」
「え?」
「ごめんなさい。聞えてしまって...。でも、誰にも言っていないから」
「はい」
水の音と食器の擦れる音だけがするキッチンで二人は沈黙した。
空港でセリアー夫妻と父親に見送られる。
「元気でね」
「はい」
「おう」
「コンサート、私達も行かせていただいていいかしら...。それから」
グレイスがそっと華月を呼んだ。そして耳元でそっと囁いた。
「...彼女さんを大切にね」
その意味の大切さを、華月はあまり分かっていなかった。










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