日本に帰ってきた。約束どおりに帰ってきてまず会ったのは由里奈だった。
 天気は暑さも絶頂の快晴。蝉たちの合唱が聞える駅前。交通の便が激しく人通りも多い、小さな銅像の前で華月は時計台を見上げた。それとほぼ同時に由里奈が息を切らしてやってきた。
「ごめん、ごめん!!」
「僕も今来たところですから」
お決まりの嘘をついて、それから二人は喫茶店へと向かう。そこで彼は鞄の中を漁ると、綺麗にラッピングされた箱を取り出した。由里奈は開けてもいいかと問う。箱を開けて彼女は驚いた。
「これってウェッジウッド...?」
「あ、はい。日本では売ってないやつを、と思って選んだんです」
由里奈が嬉しそうな顔をしたから、華月もにっこりと笑った。そして二人は歩き出す。隣り合って、腕を少し絡ませながら、恋人のように。
「さて...、どこへ行きましょうか」
「プリクラ撮ろう? まだ撮ったことないもんね」
「プリクラ? やったことないや」
「そうなの? あぁ、男子だけのお客禁止ってのもあるしね」
「そうなんですか〜」
「ついでにUFOキャッチャーでもしようか!!」
「ゲームセンターですか? 僕あんまり行かないんです」
「うん、それっぽい」
華月の笑顔。偽りではなかったけれど、それは由里奈に対する笑顔ではなく、母親に対するものだったから、由里奈はその笑顔に距離を感じた。
 一枚目のプリクラが印刷機から出てきたところで、由里奈はもう一枚撮ろうと華月を連行する。四百円を入れて画面操作をして、カウントダウンの音声が流れる。由里奈が、ぐい、と華月の手を引いた。
「えっ? ん」
唇が重なった時、同時にシャッターが切られる。
「キスプリっていうんだよ!」
笑って言う彼女に華月は唇を押さえて頬を赤らめた。写真を二分割にして、二人は次にUFOキャッチャーをする。
「右、右、ストップッ!!」
はしゃぐ由里奈の支持の通りにボタンを押して初の景品を手に入れる。
「はい、由里奈さん!」
嬉しそうな子供っぽい笑顔を見せて、由里奈にそれを差し出す。それは、本当に、子供のような笑顔だった。
「ねえ」
「ん?」
「私って、華月の何なんだろう」
「え?」
時が止まった。
「華月は、私を恋愛対象としてみてないでしょ。やっぱり年離れすぎてる? 私おばさん?」
「そんなことない! 好きですよ」
嘘、と擦れた音が彼女の口から零れた。光の粒を残して、由里奈が走り去った。華月は息を不規則に吸い込んで、恐怖に耐えた。そして数秒遅れて由里奈を追いかけた。
「由里奈さんはどっちに」
小さな悪魔達に尋ねながら必死で彼女を追いかけた。雑踏も何も聞えないまま、とにかく由里奈を追った。華月の耳に、不快な死のメロディーが響いた。
「母さんが」
瞳が熱を帯び、金色に染まるのを感じた。
「止まれ止まれ止まれ止まれッ」
時間よ止まれ。時流を塞き止め、誰一人として動かない空間が出来上がった。マネキンたちをかきわけて、横断歩道の途中で、ヒールが折れて座り込んでいる由里奈の姿を見つけた。まだ能力の扱いが完全ではない彼の目の前で、残酷にも時流の波が津波のように押し寄せてきた。
「母さん!!」
死の恐怖なんてそんなものない。そんなものはもうはるか昔に経験している。それどころか、死なんてものは彼には存在しない。身をもって、突き飛ばした。
 現場は一時騒然となった。華月は真っ赤に染まったその状況に、真っ白になった。アスファルトに広がった血。ゆっくりと紅の面積を広げていく。拒まれた華月。両手で、由里奈は彼を拒んで突き返した。何故自分の治癒能力はただの人間に使うことは出来ないのかと、悔しくてたまらなかった。華月は、潰れた由里奈の醜い死体を抱きかかえて、発狂した。
 父親が電話を受けてロンドンから帰国した。電話をしたのは華月だった。
「母さんが死んだよ」
その電話に父親は酷く困惑するとともに落胆した。翌日の早朝に父親は病院に駆け込む。
「葉月には言ったほうがいいの? 父さん」
「言わない方がいいだろう...、それよりお前...いつから母さんの事知っていた」
「四年前の冬」
俯いて彼は冷淡に言った。父親とは、目を合わせなかった。
「母さんはお前が息子だと気付いたのか?」
華月は首を横に振った。
「何を目的で会っていたんだ」
華月は黙った。
「まさかお前」
頬に激痛が走った。父、誠一の由里奈に対する愛の証だった。誠一はまだ由里奈を愛していたのに。記憶を失った由里奈が愛したのは、自分の息子である華月。
「母さんは、『あの時』僕の所為で狂ったんだ。僕が母さんをおかしくしてしまったんだ。四年前母さんに再会したとき、凄く嬉しかった。母さんのために料理作ったり、母の日を祝ったり、したかったんだよ。母さんに僕が出来る事全てしてあげたかったんだ。母さんが望む事は全部したのに」
由里奈が最も望んでいた「愛」を華月は彼女にあげなかった。
「僕はまた母さんを『殺した』」
曇った目に涙が溢れた。熱くなった瞳が涙で冷やされていく。
「父さん、ごめんなさいっ!! ごめんなさい、ごめんなさい」
親孝行がしたかった華月。その気持ちが逆に、単純に愛を求める由里奈との矛盾を生み、最終的に破局した。華月は泣き崩れ、父親も何も言えなくなりその場に崩れこんだ。
 父親は葉月に帰国が知れないようにホテルに泊まった。そして翌日、葬儀が静かに行われた。花に囲まれた由里奈の姿。華月にとって彼女は母親であり、初めて身体を重ねた相手でもあった。誠一にとって高校時代の一目惚れの初恋から頑張って結婚まで辿り着いた最愛の妻であった。母の日にいつか贈ってあげたかった紅いカーネーション。キリスト教式の葬儀で、献花として紅のカーネーションではく、色を亡くした白いカーネーションが使われた。式場に静かな賛美歌が流れた。
 葬儀の帰りに二人は喫茶店に足を運んだ。華月は俯いたまま口をしっかりと噤んでいた。
「昨日はすまなかった。詳しく、聞かせてくれ」
黙ったまま父親の足元を見ていた。どこからどう説明すればいいのか分からなかった。
「由里奈が、これを持っていた」
華月が話し出す前に誠一が差し出したのは二人で最後に撮ったプリクラだった。
「由里奈の鞄に入っていた」
「...」
「キスは由里奈からだったんだろう? 華月の表情で分かる。...由里奈は、悲しそうな顔をしている」
華月の胸に、棘が刺さった。
「由里奈はお前に、母親としてではなく、一人の女として見て欲しかったのではないのか? 由里奈は本当に心からお前のことを愛していたはずだ」
悔しそうな父親の声。ずっと由里奈を見ていた誠一は、彼女の表情で全てを悟った。
「だからこそ、由里奈を助けようとしたお前を拒んだのではないのか? お前を守るために」
華月が死なないように。華月は、死なないのに。
「僕は...、僕は...、」
何も言えなかった。彼女の望むとおりにしていたのに、こんな結果になるなんて。華月はぼろぼろと哀咽した。華月に「愛」というものがまず分からなかった。どうすれば由里奈を愛していたといえたのか。何をしてあげればよかったのか。自分では百パーセントのことをしたつもりだったのに。華月の涙は枯れることなく流れ続けた。愛するという事の意味。街中で沢山の人が手を繋いで、べたべたしながら歩いている。それと同じように華月も由里奈と腕を組んで映画を見たり、喫茶店に行ったり、メールもして、そして肉体関係も持った。何がいけなかったのか。何が、恋人というものなのだろうか。
「これ、お前がロンドンで買った...。由里奈にあげるつもりだったのか」
遺品となってしまった潰れた箱。中には見るも哀れな、粉砕したカップが入っていた。静かにこくりと華月は頷いた。
「由里奈...」
誠一が、由里奈の名前をポツリと繰り返した。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉を壊れたテープレコーダーのように繰り返す華月。
「分かっているよ」
寂しそうな誠一の声。
「父さん、もう帰っていいよ。葉月にばれてもいけないし、仕事に響いちゃうでしょ?」
涙は止まらないのに、父親をゆっくりと見つめると、無理矢理に歪んだ笑顔を作って見せた。それはとても哀れで、ずっと涙を堪えていた誠一の視界を潤ませた。
 朝日がきらきらと白いカーテンを通して部屋に注ぎ込んだ。結局徹夜してしまった彼の目は赤く腫れていた。
「華月、朝食」
「いらない」
コンコンとノックする葉月の声を拒んで、ずっと自室に閉じこもっていた。
「カヅキ、愛ってなんだろう」
「俺も知らねぇや。悪魔だもん」
「そう、だよね...」
時折カヅキに話しかけたりもする。気を紛らわすために宿題をこなしてみたりする。それでも、「殺人」の罪は消えなかった。事故として片付けられて、華月は何の処罰もくだらない。他人によって裁かれない罪は、自分でそれを裁いていかなければならない。それがどんなに辛いことか。
 一週間何も飲まず食わずの日が続いた。そのうち出てくるだろうと思っていた葉月だったが心配は募るばかり。父親の携帯に電話を入れることにした。
「親父、華月が変なんだ」
『...何で』
分かっていた。しかしそれを葉月に暴露することは出来なかった。
「そう、俺はてっきりロンドンで何かあったのかと思った」
淡々と言う葉月。
「まあ親父に聞くだけ無駄だよな。だって、俺と華月のほうがずっと長く一緒にいるもんな。俺のほうがアイツのことわかるに決まってる」
誠一の表情が受話器の向こうで凍りついた。
『そ、そうか。そうだな』
唇を噛み締めて誠一は返答する。
「ん、じゃあな、親父。少しは華月のこと知ってやれよ。いつもいつもいつもいつも華月はずっと頑張ってんだよ、親父に迷惑かけないようにって。彼なりの親孝行をずっとしてんだよ。」
『そうだな...、分かっている』
「胃潰瘍だって...、華月無理しすぎてるんだよ」
『ああ』
「じゃあ。ん、バイバイ」
冷酷な葉月の対応に少し誠一は焦った。葉月に対する不安と、華月に対する不安、双方を募らせて、彼は無音になった携帯電話を眺めていた。
 葉月が華月の部屋のノブに手をかける。相変わらず鍵は閉まったままだ。声をかけても返事はない。そろそろ華月の体力等の事を考えると、ここは明らかに強行的に開けた方が良いかもしれないと彼は判断を下した。もしかしたら中で自殺しているのでは、と凶事な考えが脳裏をよぎる。それでもそんなことはないと自分自身に言い聞かせて、ドアを破った。日が暮れて、もう窓から差し込んでくる光も僅かだ。電気もついていないそのくらい部屋は、悪臭に塗れていた。ゆっくりと葉月が華月の名前を呼ぶ。まだ応答はなかった。
「華月」
息を呑んだ。ベッドの横で華月は死体のように動かなかった。部屋の絨毯に足を踏み入れた瞬間、足が変な感触を感じた。液体を含んでいるような、気味の悪いぐしゃり、とした重たい感覚。葉月は照明の電源を壁伝いに手探りで探りながらオンにした。それは地獄絵図だった。
「ひっ...」
思わず小さな悲鳴を漏らした。血まみれの部屋。真っ白だった部屋が、真っ赤に染まっている。血塗られた部屋で、華月は小さく蹲って呼吸のように微かな音を立てながら泣いていた。
「死ねない、死ねない」
右手にはカッターナイフ。左手は流石に回復が追いつかずに、化膿し、ところどころから、白い、骨が見えていた。首も切ったのだろう。治りかけた傷が痛々しく痕になって残っている。
「華月」
もう涙も出ないその瞳。葉月が竦んだ足になんとか力を入れなおして壊れたそれに近づく。ゆっくりとそれに上を向かせた。目の周りから血の涙が溢れている。瞳は、白いトレイに収まって売られている魚のように青白く濁った、いや、褐色に濁り薄っすらと光る。蛍光灯の光を久しぶりに取り込んだその瞳は、ガラス玉のように表面だけでその光を反射して輝いた。
「兄貴...、目」
何故そんな瞳の色をしているのか、問わない人間は誰一人としていないだろう。分かっていた。でも華月はそれが耐えられなかった。特に、今まで「そっくり」だった弟葉月から言われる事は。
「見るなッ!!」
華月は葉月の手を振り払った。
「僕は、」
ハハっと彼は狂気じみた乾いた笑顔を浮かべた。
「僕は葉月の兄なんかじゃない。兄弟なんかじゃないんだ」
目の色が違うのに、そもそも人間ではないのに、葉月の兄であるわけがない。華月は嗤いながら言った。傷が治ろうとしてまだグロテスクに動いている。
「ほら...、僕は人間じゃないんだ...、あははッ!! この世に存在し得ないものなんだよ!!」
ふらふらと華月が立ち上がる。しゃがんでいた葉月はそんな華月を追って除ら立ち上がった。そして、ゆっくりと両手を広げた。
「兄さん」
「僕に、近づかないで」
目を取ろうとしたのだろうか、華月の頬に流れた血の涙の痕を葉月はゆっくりとなぞった。華月はそれに怯えて退いた。
「俺は、華月の弟だ。華月がたとえ人間じゃなくても、それでも俺は華月の弟だ」
ゆっくり後退する彼の肩を掴み、そして抱きしめた。
「俺は、兄貴の全てを受け入れる。他の人とは違う」
枯れた心に恵みの雨が降った。華月は目を見開いた。
「兄貴、俺たちはずっと腹の中から一緒だった...。それからずっと一緒だった。嬉しい事も悲しい事もずっと二人で経験してきただろ。俺は、兄貴の辛さを今分かってあげたい。そんで、支えになりたい」
肩を掴んで、向き合って話す。まっすぐ華月の瞳を見据える。
「は、づ、き」
ゆっくり、弟の名前を繰り返した。そして、その存在を確認すると、葉月の腕を掴んで離さなかった。もう二度と失わないように、強く強く、爪が食い込むほどに、掴んだ。葉月は、笑った。










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