他の人とは違う、という葉月の言葉が、華月の上に圧し掛かった。誰も受け入れてはくれないと思っていた。しかし葉月は受け入れてくれた。でも、他の人は受け入れてはくれないということをその台詞は暗示している。葉月以外は、皆自分を拒絶するだろうという半ば確信的な考えを華月は抱くようになっていた。
 部屋のクロスを張替え、絨毯も取り替えてと、半日かけて部屋を元のような白い部屋に変えた。華月もある程度正気を取り戻し、リビングのソファーの上で丸くなって座っていた。
「華月、どっか行く?」
「いい」
「何食べる?」
「なんでも」
適当な返事をして、適当に生活する。それも悪くない気がしてきた。今までいつも頑張ってきたつもりだ。父親の言う事を聞いて、かつ迷惑をかけないように、希望以上の成績をとり、周囲の大人や周りの人間に気を使って。確かにそれはありのままの華月で全てこなせた。しかし時には努力して我慢しなくてはいけない事もあった。ほとんどありのままの華月でこなせてしまう分、逆に努力しなくてはならないところは規格外に過酷な場面であった。だから、こういう生活も心地が良い。リビングでソファーの上に丸くなって、華月は家事に追われる葉月を観察していた。そのとき、洗濯物を抱えて急いで食事の用意に回る葉月が滑って転んだ。
「ぷ」
思わず華月が噴出す。
「笑うなよ」
「あ...ごめん」
つい笑ってしまった彼は咄嗟にすまなそうに口を押さえる。
「...冗談。久しぶりだな、お前が笑うの」
「え?」
「やっぱり兄貴は笑ってたほうが良いぜ」
ニカッと笑ってみせる葉月。
「ありがとう」
「でも、作り笑いは厳禁な」
真剣な顔になった葉月に華月は戸惑った。
「作り笑いすると...お前の存在がどんどん薄れていく」
存在が薄れていく。それを華月は理解する必要がないほどによく悟了していた。それは華月の存在があやふやになっていくということ。地面に足がついていないような、そんな有耶無耶な感じがして、そこにいてもそこにいないような感覚になる。華月自身も、話している相手も。
「うん、分かった」
家の中だけ、せめて葉月だけには素を見せても大丈夫なような気がしたから、できる限り彼なりに努力すると笑顔で言った。...でも、何故自分がこんなになってしまったのか、それだけは言う事が出来なかった。母親の本当の死。葉月が本当に気の置けない存在になるのには少し時間が掛かった。
 家の中ではいつも通りにいられた。でも華月にとって「外」というのはまだ恐怖の取り巻く環境であって、一人で外に行くのが怖かった。家の中でも時折、一人だと激しい孤独感に襲われる。このまま葉月が帰ってこないのではないか、そんな感覚に。そして今日も、葉月は買出しへと出かけていく。
「気を、つけてね」
「おうよ。行ってくるぜ。それとも一緒に行くか?」
ショックからの無意識な退行が、華月をそんなふうに子供っぽくしている。
「うん」
外に出るのは怖い。でもまた誰かを失うのが怖い。華月は少し戸惑ったが、葉月についていくことにした。靴を履き、外界へ出る。葉月の影に隠れていれば、誰にも瞳がばれることはないだろうと思って、ずっと葉月の後ろに背後霊のようについていた。
「あれ、和泉兄弟じゃね? おい、和泉!!」
遠くから呼ばれて華月の体が反応する。葉月の腕を咄嗟に掴んだ。
「...逃げるか」
葉月がにやりと悪戯っぽく笑って見せた。華月はそれに安堵して、笑ってこくりと頷いた。
「...? 何で逃げるんだよ、あいつら」
 息を切らして駅の裏の公園のベンチに腰をかける。
「葉月、あり、がと」
「ん? ああ」
二人は至極楽しそうだった。平和な日常が嬉しくて、華月は笑い、そんな幸せそうな彼に葉月も幸せな気分になった。
「さて、買い物しねぇとな」
 スーパーで一通り買い物を終えていく。周囲なんて全く気にしなかった。気にする暇がないほどに彼は幸せだった。途中金色の目に驚く人もいたようではあったが、カラーコンタクトが存在する時代。特に気にする人は少なかったようである。きっと葉月はあえて華月に話題を振って、周囲を気にする暇を与えなかったのであろう。それが少し華月には感じ取る事ができたから、彼自身落ち着いていられた。全て葉月のお陰。葉月がいれば自分はそれでいいのかもしれない。そんな行き過ぎた思いを彼は持っていた。
 葉月が笑った。何が可笑しいのかわからなかったが、そんな幸せそうな彼が華月には嬉しかったから、彼も笑った。お互いの考える幸せとは、必ずしも一致しているものではないのに。
「華月、デザート食おうか」
「でも夕飯が」
「腹空いて死にそう。夕飯に響かない程度にさ」
一時的な満腹感がほしいのだろう。そんな彼の意見を渋々受け入れる。
「パフェ、パフェ!!」
「そんな...、お腹に溜まるじゃないか」
「パフェくらいどうってことねぇだろ!! 少なくとも俺は大丈夫だね」
その大食いさに少し呆れながら、彼らしいなと少し笑って華月は言った。
「そうか? じゃあ僕は食べないから」
葉月は小食な華月の背中をばんばんと叩いてもっと食えよ、と笑う。
「うん、でも大丈夫だよ。甘いものはそこまで...好きじゃないんだ」
「辛党だもんな」
とにかく二人はショーウィンドウを見て小さなレストランを選ぶと一番奥の外の見える席に座った。
「夕焼け」
「綺麗だな。真っ赤で」
「...そ、そうだね」
その赤い空が、まるで血のように見えたから少し身震いした。ウエイターにパフェとブラックコーヒーを頼んで、葉月はまた夕焼け空を眺め始めた。しかし華月はそれをもう眺める事は出来ず、先に来た自分のブラックコーヒーの表面をそっと見ていた。その時、厨房の方から悲鳴が聞こえた。
「え?」
悲鳴の直後に厨房から真っ黒な煙が溢れた。火事だ。客達はパニック状態になりながら店の外へ走る。二人も立ち上がると店の外へ行こうとした。
「...!?」
この炎は、ただの炎ではないと華月が気付いた。臭いも充満していないのにもかかわらず唐突に炎が来るわけがない。コレは、火の精サラマンダーによるものだ。立ち止まった華月を葉月が振り返る。
「おい!! 何してんだ!?」
華月は葉月を追いかけようとする。しかし煙が充満して視界は最悪になった。
「葉月!? 葉月!?」
呼んでも返事はない。ハンカチを口に当てて低い体勢でいる華月の元に、サラマンダーが来た。
「何してるの!? 早く抑えて、抑えて!!」
サラマンダーはふるふると首を横に振った。
「何で!?」
自分の周りには火は来ない。
「葉月が死んじゃうよ!」
コクリとサラマンダーは首を立てに振る。
「...死んだ?」
再度精は首を横に振る。精霊は基本的に口が利けない。精霊が何を言いたいのかが分からない。
「...葉月を殺そうとでもしてるの?」
自分でも意味が分からないが、ふざけ半分でそう精霊に聞いた。サラマンダーは必死に、首を、縦に振った。
 助かってしまった。華月はほぼ全焼した店の前で蹲っていた。葉月はどこにもいなかった。サラマンダーがそんな華月のもとへやってきた。
「何てことしてくれたんだよ」
震える声を喉の奥から絞り出した。サラマンダーはふるふるとただ首を横に振るだけである。
「協力者はいるのか」
低い、怒りに満ちた声で問う。ただ首を振るだけの精霊に怒りは増すだけであった。手を振り上げるが、もう殴る気にもならない。
「...帰ろう」
そう呟いて立ち上がる。そこで、気付いた。
「...どこへ?」
葉月はいないのだ。もう、誰の所に帰ればいいのだ? そんな華月の肩を、誰かが掴んだ。吃驚して振り返ると、そこにたっていたのは葉月だった。
「良かったぜ。途中で見えなくなったから」
何かがおかしかった。でもそれ以前に、彼が生きていたということが嬉しくて、華月は飛びついた。サラマンダーは驚いたように目を見開いている。しかしそれが「やっぱり」とでも言うように溜息をついて、その場から消え去った。
 病院に寄って、念のため二人とも検査をしたが何ともないという結果に安堵した。それから二人で家に帰る。時刻はもう七時を指している。
「心配したよ。本当に。僕、葉月がいなくなったらどうすればいいのか...」
「それはこっちの台詞だ。...それよりさ、もし俺がいなくなったらどうしてた?」
「は!? いいんだよ、もう葉月が生きてるって分かったんだから」
大切なものは一つであるからこそ意味がある。今まではそれが多すぎた。もう何もいらない。葉月がいればいいような、そんな気がした。
「本当に、俺だけでいい?」
口に出したはずはないのに、葉月がにっこりと笑った。
「...?」
「美裕はお前を裏切った。辛いだろう?」
「...でも...本当に痛いのは、美裕さんだから」
「何言ってんだ、手前。本当に痛いのはお前じゃねぇか」
華月は笑った。
「葉月、何言ってるの? 僕に痛いことなんてないんだ」
華月の表情が狂ったものに変わる。しかし葉月はそれに気付いているのか気付いていないのか...。
「我慢なんてしなくていい。俺は一番お前が痛いことを知ってる。俺だけを、求めてくれ」
思考回路が狂っていた。よくわからないが、葉月の言う事が間違っていないような錯覚をおこす。
「うん」
と言った。それがどんなに軽い考えだったか。
「くす」
葉月が笑った。いや、嗤った。そして、彼の手がゆっくりと、華月の方に伸ばされた。
 現実は伏線とはいえないほどに絡み合ってしまった。粘度のある蜘蛛の糸のようなもので張り巡らされ、それに捕らえられ、まるで操り人形のように運命の思うがままになっていた。
「哀れな人形」
暗い部屋に声が響いた。
「俺のもとで壊れてしまえ。心も体もバラバラに」
歌うように言葉を紡ぐ。聞いている者全てを壊すような掠れた低い醜い声。それに答えるように小さな声が聞える。
「壊されても、いい」
地べたに転がって呼吸のように呟く。
「でも…僕を一人にしないで」
泣いているわけでもないのに、とても悲しそうなその台詞は、湿ったフローリングに吸い込まれた。
 地下室に拘束された。由里奈の死は明らかに魔王によるものだった。魔王が明らかに動き出している。それを主に伝えようと飛び出したカヅキは、家の周りに張られた結界から抜け出すことが出来ず、そのまま魔王に囚われた。
「畜生!!」
今華月はどうなっているのか。魔王はどのように動いているのか。主は気付いているのか。自分の無力さにうんざりする。はぁ、と大きな溜息をついて、カヅキは上を見上げる。この上に華月はいるのに――。前足を動かすたびに重たい金属音が響いた。結界が強すぎてカヅキの遠吠えさえも届かない。
「畜生、畜生」
切れるわけがないのに、その術のかけられた鎖を何度も噛む。
「俺たちは待っているんだ...、新しい魔王を」
現魔王は、独裁政治で魔界を困らせている。それをどうにかするために、魔界から逃げ出してきた。本来の姿を奪われ、獣に変えられてもそれでも新しい魔王を迎えるために。その時、小さな光の魂が、カヅキの目の前に現れた。結界が張られているのに何故ここに侵入できたのか。その光の魂はふらふらと浮遊して、カヅキの鼻の頭に止まった。
「何だお前」
ふん、と荒い鼻息を立てるとその光は容易く吹き飛ばされた。
「オマエ、ダレ」
光がぽやぽやと呟き始める。
「俺はカヅキだ。で、お前は誰なんだ」
「ワタシハ、ダレ」
「知るか」
どうやら何の力も持たない霊魂だろう。あまりに弱いものは入り込めてしまうのだろう。記憶すら持たないその魂はぽやぽやとまだカヅキの周りを飛んでいる。
「カヅキ、カヅキ」
「何だよ」
「ワタシ、カヅキ、シッテル」
「何でだよ」
迷惑そうに眉を顰めながら、適当にあしらう。
「ワタシ、シッテル、シッテル」
「だから何で」
その光と同様に黄色い、甲高い声をあげながらカヅキの耳元ではしゃぐそれを、カヅキは尻尾で振り払った。
「ヒドイヒドイ、ワタシ、カヅキ、カヅキ、カヅキ、」
更に五月蝿くなったそれに、カヅキは耳を伏せようとする。
「カヅキ、マモル」
突然魂が呟いた言葉に、伏せようとした耳をびゅっと立てた。
「お前、何で」
「マモル、マモル、マモル」
それしか記憶にないのだろうか。それを繰り返してカヅキに対してぶつかってくる。
「何だよ」
「ワタシ、カヅキ、マモル。デモ、ワタシダケ、ムリ。オマエ、クル」
「見ればわかるだろ、動けないの」
「オマエ、ヒトノココロニハイレル」
「お前はただの人の霊魂だろ、無理だ。俺は強すぎる。身体まで入らないし、魂だけを入れたとしても、数分でお前は消滅する」
魔界トップクラスのカヅキをこんなちっぽけな霊が受け入れきれるはずがない。そう考えると華月の力がどれほどのものかを再度分からされる。
「ワタシ、コノイエノソトニ、アクマヨンダ」
「悪魔だと?」
「ワタシ、ソコマデナラ、モツ。ソコカラ、アクマニ、ばとんたっち。カラダハ、ココニ、ノコスシカナイ」
そこまでなら大丈夫だと言うが、確かにそこまで保ったとしても、きっと結界から出た瞬間にこの霊は消滅してしまうだろう。
「自縛霊になるぞ」
「イイノ、ワタシ、カヅキ、マモル」
この霊は華月の何なのだと疑問に思った。
「お前何でそんなに」
「ハヤク、スルノ」
カヅキの問いかけを無視して、早くするように促す。仕方なくカヅキもそれに従う。自縛霊になっても良いといっているその霊よりも、未来の魔界の運命が懸かっている華月の方が重要だと考えたからである。カヅキはその霊の中に入って外へと抜け出した。
 外にはその霊の言うとおり、地獄の侯爵であるケルベロスがカラスの姿で待っていた。小さな霊から抜け出し、ケルベロスの中に入り込むと、霊魂はしょぼしょぼと地面に堕ちていった。
「カヅキ、カヅキ」
呼吸音に紛れてそう言っているのが聞える。
「ゴメンネ、カヅキ」
パリンとビードロが割れるような音を立てて、消滅した。
『まさか』
カヅキの胸に嫌な予感が広がった。
『ケルベロス、お前これ誰だか知ってるか?』
「いや...知らんな」
『そうか...』
この霊は由里奈ではないかという考えがふつふつと湧き上がり、それは確信に近いものとなっていた。
「さて、カヅキ。どこへ行くんだ」
『ちょっと待て、今の、人間界の時間は?』
「八月二十六日、午後八時四十六分二十五秒だ」
『部屋に明かりがついてる...。マズい、早く長崎へ』
修学旅行中なはずなのに、部屋の明かりがついている。自分がいない間にかなり緊急事態になっていたようである。ケルベロスはカヅキに従って、その翼で長崎へ向かう。










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